堤康次郎

西武グループ創業者

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堤康次郎の名言

堤康次郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • すべて成功するには、失敗の原因を外に求めず、己れに求めることが大切である。

  • 売るときは大いばりで売ってやれ。買うときはいいものを安く売っていただくんだ。

  • ごまかし、曖昧さ、嘘というものは、一度は通じても二度三度は通じない。

  • それまでに経験した失敗は、人生観を見出すための月謝と思えば、安いものだ。

  • 儲けよう、儲けようと焦れば焦るほど失敗する。他人がいいぞと言ったり、上手く儲けた話を聞いて、あわてて手を付けると、もうその時は手遅れだ。いつまでも柳の下にドジョウがいるわけではない。

  • 儲けようと考えたのがいけない。この世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。そして最初に考えたのが、不毛地の開発事業であった。

  • 「みながやるから自分もやる」ということで、無理をしてまで仕事をしようとするな。

  • 相手を騙す気が無くても、騙されたと思わせるような曖昧な態度だけは、断じて取ってはならない

  • 事業に役人の古手を連れて来ることは最も良くない。役人気質で事業は成り立たない。

  • 自分は生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末に考え付いたのが「儲けようと考えたのがいけない」ということだった。自分は儲けなくてもいいから、この世のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。

  • 人のやらぬこと、やれぬことのみをやった。それで成功したのである

  • 父から学んだ最大のことは人を大事にするということ。組織に人を合わせるのではなく、上に立つ人の力次第で組織が伸び縮みするようにしています。

  • 全員が賛成したら、その計画は危ない。

  • 私は三十歳になるまで、百事百敗、何をやっても大した成功はおさめなかった。だます人間をあまりにたくさん相手にしたからである。しかし、今になると、これが私のたいへんな得になっただますことは一度きりだ。あとが絶対通用しない。そのうえ、十を得たところで百を失い、千を失う。元も子もなくす損な生き方だ。そこへいくと、だまされるのは生来の馬鹿でないかぎり、それによってたいへん知恵がつき、用心深くなる。二度と再び失敗せぬように警戒する。それがあとでどれだけの得になるか、測り知れない。

  • 私は従業員の生活は何としても安定させなければいけないと考えており、戦後はじめて賃上げ闘争があったとき、一挙に5倍引き上げを全部認めたこともある。食糧難時代には、食料確保にあらゆる努力もした。感謝と奉仕の信念で、全員が結ばれている。

  • 景気の良い時は抑えろ、不景気の時に動け。

  • 私は20歳代の時には、儲かりそうな仕事に見境なく飛びついた。そしてことごとく失敗した。

  • 私に言わせれば、煩悶のないことが、養生の秘訣である。

    解説:  煩悶(はんもん)とは、心で悩み苦しむこと

  • 相手を騙す気が無くても、騙されたと思わせるような曖昧な態度だけは、断じて取ってはならない。

  • 全員が賛成したら、その計画は危ない

  • 考えてみると、自分一人でコツコツと仕事をやっていくのならいくらかずつでも積み重ねていけるが、大きくやろうと思って人を使って事業をやるには自分はまだ資格ができていない。真珠をやろうとしても、御木本という長年苦心して築いた人と競争しなければならない。船をやるにしても、砂原で船をこしらえるようでは本格的な造船所と太刀打ちできるわけがない。自分はまだ20歳代で判断力もいかに乏しかったことかと深く反省した。

  • 人のやらぬこと、人のやれぬこと、やはりそれを自分自身の頭で考え出してやらねばウソだ。しかも、それが金儲けのための金儲けでは、決してモノにならない。

  • 西武は数千人の小人数で、家族的に纏まっているからうまくいく。国鉄のような大きな所帯は、私は統卒すべき器ではありません。そんな柄にもないことをやったら世の中の笑いものになる。まして私は追放中の身です。

  • 私鉄でストがないのは西武ぐらいなもので、なぜストがないのかといって聞かれることもたびたびである。別に大した理由はない。私が西武鉄道から財産をつくっていないということ。人事に公平だということ。従業員と一緒に仕事をしているという気持ち。そんなことがあげられるのではなかろうか。

  • 国民の政治に対する不信ほど恐ろしいものはない

  • 事業は生き物だ。いままで共に辛酸をなめてきた従業員を会社と一緒に人を譲るなどというのは人身売買に等しい。どんなことがあっても売らない。

  • 家庭だけは複雑にするなよ。

  • 日本が発展すれば中産階級が台頭し、リゾート地の需要が大きく高まる。だから中産階級が使えるリゾート地を開発することは、国のためになるのだ。

  • いまのキャンプの前身のテントホテルやバンガローもやってみたが、いまと違って、その頃は利用者もほとんどなかった。なにしろいつも30年ばかり時代より早いことをやっていたもので、思いつきは良いのだが成功はしなかった。

  • 私は新商品の山を前に、お客のくるのを待った。ところが、お客様は一向に現れない。開店当日に売り切れるなどという予想は全く夢である。祖父の名前はかなり知られていたので、それまでも看板に拝借したのだが、全然効果はないのである。私の最初の事業である肥料商は、かくて一人のお客様も迎えないままに、ついに閉店のやむなきに至った。

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堤康次郎について

堤康次郎は西武グループを創業した実業家。不動産事業で財をなし、国立、軽井沢、箱根などを開発したことで知られる。箱根の観光開発を巡って東急グループと繰り広げた抗争は「箱根山合戦」と呼ばれ、世間の注目を集めた。一方で国政にも進出して衆議院議員当選13回を誇り、衆議院議長も務めた。

1889年(明治22年)現在の滋賀県愛荘町生まれ。4歳で父を亡くし父の実家で育てられた。京都の海軍予備学校で学び、卒業後は役所で働く。その後退職し1909年(明治42年)早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1913年(大正2年)卒業すると政治評論雑誌「新日本」の経営に携わった。さらに桂太郎が中心となって結成した政党、立憲同志会の創立に参加したが、桂太郎の死去によって3年持たず解散している。1915年(大正4年)頃から堤康次郎は軽井沢の別荘開発に着手、1917年(大正6年)に80万坪もの分譲地を購入。別荘地の分譲を開始した。1919年(大正8年)箱根に10万坪の土地を購入したのを皮切りに箱根の観光開発にも着手した。1926年 現在の国立駅周辺で東京商科大学(現・一橋大学)を中心に据えた宅地開発を開始。鉄道事業にも次々と進出し、1923年(大正12年)に堤康次郎は駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を取得、1940年武蔵野鉄道の株式の過半数を買い集め社長に就任、1943年旧・西武鉄道の経営権を取得し、社長に就任。1945年(昭和20)傘下の鉄道会社を合併して一つにまとめ、名称は西武鉄道とした。

積極的な事業展開の一方で堤康次郎は国政にも進出し、1924年(大正13)滋賀5区から出馬し衆議院に初当選。立憲民政党に所属した。第二次大戦後に公職追放となるが、解除後に再び国政に参加。1952年には改進党の結党に参加した。1953年衆議院議長に就任。当選回数は計13回に及んだ。1963年の総選挙で13回目の当選を果たした翌年の1964年(昭和39年)心筋梗塞で死去。享年75歳。