石橋正二郎
ブリヂストン創業者
石橋正二郎の名言
石橋正二郎の過去の名言をまとめた名言集です。
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事業は良い計画を立て、時を活かす事により成功する。先の先を見透かして事業を始める。気は長く持つが、行うときは気短でなければならぬ。
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禍は口からという。威張り、虚勢を張る人は他から嫌われて、孤立し、人望を失うに至る。
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一個人として如何に優秀でも、他人と仲良く働くことのできぬ人は、集団生活においていちばん厄介な人である。
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時の短縮は、私の信条である。もし他人の三分の一の時間で仕事をすれば、結局三倍の仕事ができるわけだ。だから一生涯の活動時間を、かりに四十年とすれば、百二十年分の仕事量となる勘定になる。
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時世の変化を洞察して時勢に一歩先んじ、より良い製品を創造して社会の進歩発展に役立つように心がけ、社会への貢献が大きければ大きいほど事業は繁栄する。
出典: 「ブリヂストン石橋正二郎 久留米から世界へ」
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一生涯の目的を達成線とするものは、いかなる固執も、障害も、目前の名利も介さず、忍ぶ、粘る、堪忍持久、終始一貫、最後の目的に突進することである。
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生活向上に役立ち、人の幸福を増す製品をつくることが成功の基である。
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ちっぽけな仕事を飛躍させるには思い切ったことをやらねばならぬ。
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ゴムに手を染めた以上、将来非常に大きくなるのは何だろうかと頭を痛めた。当時、自動車は日本中で3、4万台だった。米国などの状況からいろいろ判断して、将来100万台にはなるだろう。100万台になったら大変なものだ。アジアに目を向けても大きな市場がある。そうだ、自動車タイヤだと自ずから結論が出るようになったわけだ。
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逆境こそ事業革新のとき
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気は長く持つが、行う時は気短でなければならぬ。
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心だに誠の道にかないなば、折らずとても神や護らん━道具公の和歌が私の信念である。日本では精神的なものを尊ぶが、心と物とが創り出すものは真に世の中のためになるものである。
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言葉をつつしみ、自分の偉さを表そうとはせず、気取られなければかえって人に尊敬され、親しまれ、自分も楽しみが多い。
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最高の品質で社会に貢献
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賃金は2倍でよろしい。しかしあとは駄目だ。人事権などにクチバシを入れるものではない。こっちからストをやれと言う必要はないが、肩透かしに一番いいときだと思うから、やるならやってみろ。一人でも戦う。
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私は朝早くから夜遅くまで、日曜も祭日もなく一生懸命に働いた。タイム・イズ・マネーを実行したので人の3倍くらいは仕事したろう。また、父からタバコや酒はのむなと言われて今日まで実行している。
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弟子の賃金制度も思いついた。弟子は無給で働いている。仕事をするのに無休では勉強などしない。こんなことでは駄目だから給料だけは希望するだけ払い、その代わりに足袋を能率よくたくさんつくり、値段を安くする。こういう合理化案がまとまって実行に移した。いまなら無給から賃金制度に変えるのは何とも感じないが、当時としてはかなり思い切った考え方で、にわかに店費が激増したため、父からバカなことをしたと叱られた。しかし、それから皆働きがいがあるようになって能率が上がり生産も増え、同業者との競争に負けなくなった。
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足袋を市価より2割安い20銭で売った。当時は儲けを2割見込むのが常識だった。たくさんつくって能率を上げ、雑費もかからないようにする。こうして思い切りやすくすることにしたので一躍注文も殺到した。
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あまりに好調にものごとが進むと終いには上から下までみんな馬鹿になってしまうようだ。品物を売り上げてやるという調子で、苦労を知らない連中のことだから終戦後はひとしお苦労の味をなめることになった。
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富士精密を買収したところ、赤字がたくさん出てだいぶ困った。しかし、金を入れて立て直し、いまでは立派な会社になった。最初からあれだけの小型自動車エンジンをつくったので、他の自動車メーカーが驚異の目を見張ったが、戦時中、飛行機のエンジンで非常に苦労し勉強しているので、技術がいいし、熟練工もそろっている。ただ、営業がまずかった。つまり戦時中は政府納めばかりなので経営が無能だったのだ。
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なんら失敗がなく自然と伸びていくので、他人からつくりごとのようだと言われるくらいだった。もともと大雑把な私のこと、すべて楽観してやるので、人が止めても何しても独走してしまう。たまたまこの独走がものをいった形だ。
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普通のたびにゴムを糸で縫いつけた地下たびはあった。しかし地べたにはくので、すぐに糸がすり切れ、始終修繕しなくてはならない。自転車のタイヤは二枚のきれを張り合わせ、その上にゴムを張っている。そのゴムのりで張りつけるのが一番いいだろうと思った。
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そのうち仕立て屋に疑問を感じるようになった。雑多なものを古めかしくつくっているのではいくらやったって駄目だ。これから見込みのある足袋を専業にしようと考え始めた。福助足袋などが盛んにやっているのを見てヒントを得たわけだ。
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競争は進歩の母である
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自動車タイヤの販売が始まった。しかし、たちまち破れやすいという評判が立った。破れるのはこちらの責任だから取り替えないわけにはいかない。どんどん取り替えたため千坪ぐらいの畑に10万本くらいのタイヤが山になり、破産するところまで行きかけた。ブリヂストンの仕事は4、5年ぐずつき、軌道に乗ってきたのは10年ごろだった。
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「米国の自動車タイヤのメーカーには1日5万本とか6万本もつくる大きな会社があり、それを日本に持ってきてダンピングしたら君のところは丸つぶれだぞ」というのが三井物産あたりの言い分だった。しかし、そんなことはどうでも、技術さえ成功すればいいのだからと、九州大学のゴムの先生の所へ行き「やってみようと思うがどうでしょうか」と話したところ、「100万円、研究費をください」という。当時の100万円だからかなり値打ちがある。地下足袋製造で働いていたドイツ人技師に話したら「自分も大いに賛成だ。やろうではないか。だがこれは極秘で研究しなければ世間に知られて失敗する」とのことだった。
石橋正二郎の名言を見ている方へお薦めする名言
石橋正二郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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どんな仕事でも見知らぬ人にお願いをされるってことは、その先に新たな出会い、未経験の状況が待っている。やってみて本当に後悔するなら、それから断るリストに書き加えればいいわけで。まずは断らないこと。そこに成長のチャンスがあるんじゃないかな。
テリー伊藤 テレビプロデューサー、タレント
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とにかく、何かの知的生産を行う時に、集中力を上げるために必要なものは、意志の力でもなく、スマートさでもなく、単純に体力です。
勝間和代 公認会計士、経済評論家
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私は経営理念として「金融業界のイノベーターたれ」、投資事業については「新しい産業を興していく」と掲げています。いかなる状況であれ、どちらもそうあり続けなければならない。
北尾吉孝 SBIホールディングス創業者
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職場は、人がその一生を賭ける場であるから、苦痛の場ではなく楽しい場でなければならぬ。楽しいとは安易ではなく、たとえ取り組む仕事が苦しくともやる気があれば生きがいが生じ楽しいのである。それには、やる気を起こさせるような職場環境が必要であり、経営者側の配慮とそれに応ずる従業員の協力との両者の呼吸が合ってはじめて可能となる。
森泰吉郎 森ビル創業者、経済学者
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今日失敗したら、明日なんとか上手くいくように、残業するなり、復習するなり今日のうちに全部やらなきゃダメ!そして、明日からリスタート。
所ジョージ タレント、歌手
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自軍の力と敵軍の力を、ともに冷静に把握している指揮官ならば、負けることはまずあり得ない。
マキャヴェリ 政治思想家
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偉くなると、腕組みをして椅子にでーんと腰かけ、面倒なことは部下にすべてやらせればいいみたいに思っている人がいるようですが、実は社長が一番「小間使い」しなければいけない。
糸井重里 コピーライター、株式会社ほぼ日創業者
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企業と社員の間に築かれた信頼関係ほど大切なものはない。経営者から正当な報酬を受けていないと感じた社員は、疎外されたと思うだろう。社員が経営者に不信感を抱くようになった途端に、その企業の将来は危うくなる。
ハワード・シュルツ 元スターバックスCEO
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株式売買手数料が自由化されたとき、「株式委託手数料解体新書」と銘打った全面広告を日本経済新聞に出したんです。松井証券はなぜ手数料を下げるのか、その根拠と理由をそこで説明しました。株式売買の手数料を構成する要素は大きく分けて3つあります。「売買などの執行業務」「情報提供」、そして「コンサルティング」です。それを松井証券はコンサルティングはやらない、情報提供もウェブサイトを通じた客観的なものに限定する、でもその代わり手数料は下げると。いままでが「定食」ならば、こっちは「アラカルト」を出すぞと。
松井道夫 元松井証券社長
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天下のために働こうとして、土佐藩から一銭一文の資金も援助されることなく、志のある若者たちを50人も養おうとすれば、一人につきどうしても60両は必要となることから、利潤を求めなければなりません
坂本龍馬 維新志士
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知識労働の生産性の向上を図る場合にまず問うべきは、「何が目的か。何を実現しようとしているか。なぜそれを行うか」である。手っ取り早く、しかも、おそらく最も効果的に知識労働の生産性を向上させる方法は、仕事を定義しなおすことである。とくに、行う必要のない仕事をやめることである。
ピーター・ドラッカー 経営学者
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いまのようなスピードの速い時代になると、一カ所でものを生み出して、世界中にばらまくやり方では間に合いません。そこでいま私が考えているのは、三極体制による経営です。本社を東京とアメリカ、ヨーロッパにつくります。メーカーの本社とは、研究、開発、生産、販売の機能を持ったものを指します。アメリカやヨーロッパでは、東京では開発していない技術を核に、新しい製品を展開していく。そうした体制で、経営スピードを上げて世界の市場をカバーしていきたいのです。
御手洗冨士夫 元キヤノン社長
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もともとテリー伊藤の下で育ちましたからね。天才って苦労しなくていいと強く思うんです。私はAD時代が長かったのですが、現場の苦労は天才の独創性を奪ってしまうような気がします。
高橋がなり AV監督、ソフト・オン・デマンド創業者
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「東京サンシャインボーイズの罠」を最後に「30年間の充電期間に入る」と決めた。周りのみんなは「今、やめることはないんじゃないか」と言っていたけど、今しかないんだと。というのも、劇団を解散するなら、人気が下火になってからではなく、ピークの時のほうがその後の劇団員たちの展開も良くなっていくはずです
三谷幸喜 脚本家、映画監督
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異業種交流会やパーティー、催しと名のつくものは全部くだらないと僕は思っている。よっぽど義理のある人に頼まれない限り、参加しないよ。表面的な名刺交換をして、「いい天気ですね」って雑談をする程度で関係性がつくれるはずがないじゃないですか。人脈ができたと勘違いしても、実際は余計な名刺が増えただけ。
見城徹 幻冬舎創業者
石橋正二郎について
石橋正二郎はタイヤメーカーブリヂストンの創業者。経営難により日産自動車と合併したプリンス自動車の経営にも関わった。美術品の収集家としても有名で、ルノワール、セザンヌ、ピカソ、モネなどの名画を含むその膨大なコレクションはブリヂストン美術館で公開されている。
1889年福岡県久留米市に、衣服の仕立て屋に産まれる。久留米商業学校卒業後、実家の仕立て屋を継ぐ。石橋正二郎は仕立て屋で取り扱っていた地下足袋に目をつけ、地下足袋の製造を専門で取り扱うこととした。地下足袋の事業は順調に成長、大手メーカーの一つに数えられるまでになり、1918年石橋正二郎が29歳の時には日本足袋株式会社を設立した。
石橋正二郎はさらなる業容の拡大に向けて当時成長が見込まれた自動車産業に注目。足袋製造でノウハウがあったゴムを利用して自動車タイヤへの進出を図る。1930年には自動車用タイヤを完成させ、翌年ブリヂストンタイヤ株式会社(現在の株式会社ブリヂストン)を設立。1963年まで32年間にわたって社長を務めた。ブリヂストンは、カーカスと呼ばれるタイヤ内部の織物を進行方向に向かって真横に配置するラジアルタイヤにいち早く取り組み、その耐久性を武器にシェアを急拡大させた。同社は日本のタイヤ産業のトップメーカーとして君臨するようになり、世界三大メーカーの一つにまで成長している。1976年(昭和51年)死去。享年87歳。