堤康次郎

西武グループ創業者

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堤康次郎の名言

堤康次郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 糞尿のような仕事と言うが、己は汚なくなって人を綺麗にすることで、これくらい高尚な尊い仕事はない。

  • 俗に「かさけと自惚れのないものはない」というが、人一倍自惚れの強い私も、度重なる失敗にもはや精根尽きた。堤の家を立派にしてくれと慈愛の権化のように私を育ててくれた祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

  • 役人気質は日々生死の境を行く真剣な事業家のなす処ではない。

  • 私は学校へ出ないかわり、ノートとか参考書の類は実によく読んだものである。ノートなどは5日間くらいはわずかの間に読めるので、毎日毎日学校に行って、先生の言うことをただ筆記して帰るよりは、この方法がはるかに時間が有効だ。これが私の主義だった。

  • そのころは、どこへ行ってもそうであったろうが、近江の国でも百姓の方法は旧態依然たるものである。そこで私は子供ながらも大いに研究が必要だと思い、手当たり次第に農業に関する本を読みふけった。

  • 二十歳で体のかっこうは一人前になるが、判断力は五歳ぐらいの子供にすぎない。

  • 私の死後10年間は新しい事業に手を出すな。

  • 叱ることは大切な教育である。叱られることが貴重な経験となるのだ。

堤康次郎の名言を見ている方へお薦めする名言

堤康次郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

堤康次郎について

堤康次郎は西武グループを創業した実業家。不動産事業で財をなし、国立、軽井沢、箱根などを開発したことで知られる。箱根の観光開発を巡って東急グループと繰り広げた抗争は「箱根山合戦」と呼ばれ、世間の注目を集めた。一方で国政にも進出して衆議院議員当選13回を誇り、衆議院議長も務めた。

1889年(明治22年)現在の滋賀県愛荘町生まれ。4歳で父を亡くし父の実家で育てられた。京都の海軍予備学校で学び、卒業後は役所で働く。その後退職し1909年(明治42年)早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1913年(大正2年)卒業すると政治評論雑誌「新日本」の経営に携わった。さらに桂太郎が中心となって結成した政党、立憲同志会の創立に参加したが、桂太郎の死去によって3年持たず解散している。1915年(大正4年)頃から堤康次郎は軽井沢の別荘開発に着手、1917年(大正6年)に80万坪もの分譲地を購入。別荘地の分譲を開始した。1919年(大正8年)箱根に10万坪の土地を購入したのを皮切りに箱根の観光開発にも着手した。1926年 現在の国立駅周辺で東京商科大学(現・一橋大学)を中心に据えた宅地開発を開始。鉄道事業にも次々と進出し、1923年(大正12年)に堤康次郎は駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を取得、1940年武蔵野鉄道の株式の過半数を買い集め社長に就任、1943年旧・西武鉄道の経営権を取得し、社長に就任。1945年(昭和20)傘下の鉄道会社を合併して一つにまとめ、名称は西武鉄道とした。

積極的な事業展開の一方で堤康次郎は国政にも進出し、1924年(大正13)滋賀5区から出馬し衆議院に初当選。立憲民政党に所属した。第二次大戦後に公職追放となるが、解除後に再び国政に参加。1952年には改進党の結党に参加した。1953年衆議院議長に就任。当選回数は計13回に及んだ。1963年の総選挙で13回目の当選を果たした翌年の1964年(昭和39年)心筋梗塞で死去。享年75歳。