堤康次郎
西武グループ創業者
堤康次郎の名言
堤康次郎の過去の名言をまとめた名言集です。
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糞尿のような仕事と言うが、己は汚なくなって人を綺麗にすることで、これくらい高尚な尊い仕事はない。
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俗に「かさけと自惚れのないものはない」というが、人一倍自惚れの強い私も、度重なる失敗にもはや精根尽きた。堤の家を立派にしてくれと慈愛の権化のように私を育ててくれた祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
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役人気質は日々生死の境を行く真剣な事業家のなす処ではない。
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私は学校へ出ないかわり、ノートとか参考書の類は実によく読んだものである。ノートなどは5日間くらいはわずかの間に読めるので、毎日毎日学校に行って、先生の言うことをただ筆記して帰るよりは、この方法がはるかに時間が有効だ。これが私の主義だった。
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そのころは、どこへ行ってもそうであったろうが、近江の国でも百姓の方法は旧態依然たるものである。そこで私は子供ながらも大いに研究が必要だと思い、手当たり次第に農業に関する本を読みふけった。
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二十歳で体のかっこうは一人前になるが、判断力は五歳ぐらいの子供にすぎない。
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私の死後10年間は新しい事業に手を出すな。
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叱ることは大切な教育である。叱られることが貴重な経験となるのだ。
堤康次郎の名言を見ている方へお薦めする名言
堤康次郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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「約束」は「何が何でも勝つ」という覚悟となり、力になる。プレッシャーになると思う人もいるかもしれませんが、それは当人の受け取り方次第。
吉田沙保里 レスリング選手
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人生には寿命があります。しかし、会社には寿命があってはなりません。
盛田昭夫 ソニー創業者
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死後、評価される画家が多いように、成功した経営者の多くは、当初、周囲の理解を得られなかった。理屈で解釈できる経営に成功はない。論理で割り切れないところにチャンスがある。
松井道夫 元松井証券社長
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あなたの仕事が他人に奉仕するための絶好の機会であることを知りなさい。
ジョセフ・マーフィー 著述家、宗教家
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商品に出来ない技術は、あっても意味がない。
トーマス・エジソン 発明家、起業家
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仕事に直接関係あることばかりやっていたら、仕事にならないですよ。
宮崎駿 アニメーション作家、映画監督
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天下のために働こうとして、土佐藩から一銭一文の資金も援助されることなく、志のある若者たちを50人も養おうとすれば、一人につきどうしても60両は必要となることから、利潤を求めなければなりません
坂本龍馬 維新志士
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好きなことを仕事になるまでやるという考え方にシフトした方がいいと思います。
西野亮廣 お笑い芸人
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いまでもお金そのものには興味がない。仕事と莫大な富と、どちらを選ぶと聞かれたら、仕事を選ぶ。銀行の口座にある巨万の富よりも、何千人という才能あるチームを率いるスリルの方が断然面白いからね。
ビル・ゲイツ マイクロソフト創業者
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僕は従業員みんなが主人公だと思っています。それがワタミの理念ですから。
渡邉美樹 ワタミ創業者
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違う文化の人が一緒になってビジネスをするわけですから、最初は苦労します。でも1週間もすれば分かり合って助け合うようになる。自分とはバックグラウンドから何から全く違う人といや応なく向き合うことになる。こういう経験が視野を広くする。
新浪剛史 元ローソン社長、サントリーホールディングス社長
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トップに必須の能力は、簡単にいうと2つあります。1つは、明確な目標設定ができること、2つ目は、その目標を徹底的に伝え、実行に移すコミュニケーション力です。
御手洗冨士夫 元キヤノン社長
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世界を知っている指導者がそんなにいるとも思えない。日本国内でどんなに優秀と言っても、世界を知って初めて優秀な指導者と言えるわけだから。
川淵三郎 Jリーグ初代チェアマン、B.LEAGUE初代チェアマン
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人生も企業もリスクばかりです。「自分たちがやるべき事は、そのリスクの中で、グッド・リスクとバッド・リスクを区別し、グッド・リスクは絶対に取らなければいけないということ。
宮内義彦 元オリックス社長
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日本経済はいつか必ず上向くと思っているし、私は楽観的に見ている。創業当時、私が最も尊敬していた企業はソニーだった。幸運にも盛田昭夫さんにお会いできる機会があったが、彼のことを起業家やリスクテイカーじゃない、などと言う人はいないでしょう。
フィル・ナイト ナイキ創業者
堤康次郎について
堤康次郎は西武グループを創業した実業家。不動産事業で財をなし、国立、軽井沢、箱根などを開発したことで知られる。箱根の観光開発を巡って東急グループと繰り広げた抗争は「箱根山合戦」と呼ばれ、世間の注目を集めた。一方で国政にも進出して衆議院議員当選13回を誇り、衆議院議長も務めた。
1889年(明治22年)現在の滋賀県愛荘町生まれ。4歳で父を亡くし父の実家で育てられた。京都の海軍予備学校で学び、卒業後は役所で働く。その後退職し1909年(明治42年)早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1913年(大正2年)卒業すると政治評論雑誌「新日本」の経営に携わった。さらに桂太郎が中心となって結成した政党、立憲同志会の創立に参加したが、桂太郎の死去によって3年持たず解散している。1915年(大正4年)頃から堤康次郎は軽井沢の別荘開発に着手、1917年(大正6年)に80万坪もの分譲地を購入。別荘地の分譲を開始した。1919年(大正8年)箱根に10万坪の土地を購入したのを皮切りに箱根の観光開発にも着手した。1926年 現在の国立駅周辺で東京商科大学(現・一橋大学)を中心に据えた宅地開発を開始。鉄道事業にも次々と進出し、1923年(大正12年)に堤康次郎は駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を取得、1940年武蔵野鉄道の株式の過半数を買い集め社長に就任、1943年旧・西武鉄道の経営権を取得し、社長に就任。1945年(昭和20)傘下の鉄道会社を合併して一つにまとめ、名称は西武鉄道とした。
積極的な事業展開の一方で堤康次郎は国政にも進出し、1924年(大正13)滋賀5区から出馬し衆議院に初当選。立憲民政党に所属した。第二次大戦後に公職追放となるが、解除後に再び国政に参加。1952年には改進党の結党に参加した。1953年衆議院議長に就任。当選回数は計13回に及んだ。1963年の総選挙で13回目の当選を果たした翌年の1964年(昭和39年)心筋梗塞で死去。享年75歳。