市村清

リコー創業者

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市村清の名言

市村清の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 利己ではなく、利他なのだ。自分が売ってくるのはたかが知れている。多くのお客さんがセールスマンになってくれなければ、どうして他人以上の売上ができようか。そうすれば、儲けようとしなくても、自然に儲かるようになる。

  • 仕事は諦めてはいけない。最後のひと押しが成否を決めるのだ。

  • 勝負に挑むまでが、勝負である。一日一日、いや、一瞬一刻が勝負の連続であり、日々の小さな積み重ねが、毎日の心構えが、重大な取引やいざ勝負という場面にはっきりあらわれてくる。

  • 結局、儲けようなんて気持ちが強くてはダメだ。儲かるようにならなければダメだ。いくら一生懸命にやっても、たいしたことはできない。しかし、道に則ってやれば自然に儲かる。この儲かるのほうは無限である。

  • 人の行く裏に道あり、その道に徹すれば、必ず道は開ける。

  • できない理由を考える前に、できる方法を考えてくれ。

  • 仕事はあきらめてはいけない。最後のひと押しが成否を決めるのだ。人生は紙一重だ。こちらが根負けしかかったとき、相手もこちらに根負けしかかっている。どんなことでも、志さえあれば、道は必ず開けるものである。

  • 人が海面に行くなら、自分は海底に行け。もぐるのは何倍もつらいが、誰も行かない困難なところに道がある。

  • 従業員は使用人ではない。事業の協力者だ。世界のどこにも類例のない独特の協力者なのだ。

  • いかなる逆境、悲運にあっても希望だけは希望だけは失ってはならない

  • 諦めない人が道を開く。

  • 監房生活で私が得た貴重な体験は、人間は何もないところでも、工夫によっては何でもできるものだということ、もうひとつは、度を超えた苦痛を耐えていると、気が狂う前に人間には気絶という保身の道があるということであった。ふたつとも、負けるものかという不屈の精神を受け付けた体験である。

  • 明治記念館を経営してみて、私が悟ったことがひとつある。それは、「儲ける」と「儲かる」の違いである。儲けるのはどんなに上手くても限度があるが、儲かるということは無限だ。そして道にのっとってやるのが、この「儲かる」ことなのである。明治神宮の名でやるのだから暴利はい絶対にいけない。飲食物も3割以上の利をみてはいかんと言いつけてある。それが大衆の心をとらえたのだ。

  • 初めて自分で人を使う立場になったとき、私はいろいろ考えた。私のように特別の学歴も人のつながりもなくやってきた者が、今後伸びようとするには、結局従業員が心から協力をしてくれるかどうかにかかっている。そのためには、彼らの待遇を物質的にも精神的にも他より優遇してやることが必要だ。

  • 敗戦という厳しい現実の前にこそ、私たちは愛情を持って団結してゆかねばならないと思う。店の名を三愛としたのも、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛する」という人道的なスローガンを示しているのです。ぜひ協力を願いたい。

  • 人生というものは、たとえいかなる逆境・悲運に遭遇しても、希望さえ失わなければまったく消えてしまうものではない。

  • もし成功に秘訣があるとすれば、他人の立場を理解し、他人の立場から物事をみる能力を持つことである。

  • 現在は損であっても、三年先か、あるいは五年先にピントを合わせて、小損大利をやれ。

  • 私は店員をどんなに若くても君付けで呼び、妻にはさん付けで呼ばせた。使用人ではない、仕事の協力者という扱いである。食事も三食とも皆で一緒にする。私は少年のころ、叔母の家で食べ物の差別に苦しんだことも決して忘れていなかった。食事の点だけは、妻は猛反対して、たまにはあなただけに鯛の刺身でもつけたいなどと言ったが、私は承知しなかった。彼らへの愛情は、子供に対する愛情をもってしなければ不徹底だと思ったからである。

  • 私は過去の体験から、従業員を使用人でなく事業の協力者だと思っているし、物心両面からできるだけの待遇を実行している。そしていつも彼らが勤めを楽しい面白いこととして愛するようにと導いているつもりだ。働くことに何の心配もつきまとわない、世界のどこにも類例のない独特の市村産業団というものをつくりあげていきたい。

  • 人間は何もないところでも、工夫によっては何でもできるものだ。

  • 書いたものより口約束こそは守れ。うそをついてはいけない。

  • いったいこのカタログにはなんと書いてあるのですか、これ以上のものはないと書いてあるじゃないか、それが売れないというのは、携わる人の熱と努力が足りないのだ。僕は人の嫌がる保険募集でも成功した。仕事の熱意と努力では人に負けないつもりだ。

  • いまになって思い返すと、生きてゆくための障壁にぶつかって苦しんだひとつひとつの経験が、私の信念というか、処世の哲理と生活信条を形作ってきたようである。

  • 言えない事は言えないと、はっきり言うべし。

  • さんざんいじめられ抜かれたあとだけに、敵愾心の好意に対しても報いなければ、私の男が立たぬ。私はそれこそ武者震いをして立ち上がり、妻も驚くような勢いで仕事に熱中した。

  • 人を愛し、国を愛し、勤めを愛する

  • 私の店の経営の基本方針は利益三分主義で、一は店員に、一は将来のための積立、残りの一を危険負担という風にしていた。

  • 最初の東京の生活は苦しいものだったが、そのころ私はひとつの生活信条を自分に課していた。絶対に他人の世話にはならないという誓いである。月給日前に金がなくなってしまうこともよくあったが、一食の料金も人から借りることは肯んじなかった。

  • 私の関係している会社はどこにも組合というものがない。全部で約7000人の社員がいるのにどこにも組合がない。これは私が徹頭徹尾「三愛主義」で貫いているからで、それも口先だけでなく本当にそう思っていることを社員たちが理解しているからであろう。

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市村清について

市村清は理化学研究所の感光紙事業の業容拡大に貢献し、独立した会社として理研感光紙(株)を設立した。これが後に株式会社リコーとなった。

1900年(明治33年)佐賀県に産まれる。1922年市村清は中央大学専門部法科を中退して日中合弁の「大東銀行」に入行。1927年金融恐慌によって同行が閉鎖される。この時、銀行閉鎖の時に金を持ち逃げした嫌疑をかけられ、一時留置場に入れられたという。富国徴兵保険(現・富国生命保険)にセールスマンとして入社。1929年理化学研究所の感光紙事業の九州総代理店となり大きく売上を伸ばすと、市村清は理化学研究所本体の同事業へ招かれ、1936年独立会社として理研感光紙(株)を設立。1938年に理研光学工業と改称された同社は、理研産業団の中核をなす企業にまで成長。しかし、第二次大戦が終戦すると、GHQによる財閥解体で理研産業団を離れる。そして1946年市村清が理研産業団から独立した理研光学工業の社長に就任する。市村清は終戦後に食料品店の三愛商事を設立(のちに婦人服店に転業)。三愛商事は人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーとした。1947年赤坂仮御所の別殿を「明治記念館」と名付け、大規模集会施設及び結婚式場として開館。1953年理研光学工業は朝日精密機器および愛光商事の吸収合併し、東京・大森にカメラ工場を設立することで戦前に行っていたカメラ事業を再開。1960年事務用プリンター事業に進出。さらに三愛石油を設立、西銀座デパート、日本リースなどを設立し、「リコー三愛グループ」を作り上げた。1968年死去。享年68歳。