五島慶太

東急コンツェルン創始者

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

五島慶太の名言

五島慶太の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 自分より偉い人はみんな利用しなければだめだ。自分より偉い人を思うままに働かせることが事業成功の秘訣だ。

  • 人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だ。それには進行で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。

    出典:  五島慶太「私の履歴書」

  • 事業場から墓地に直行したくない、とは考えているが、事業こそわたしの生命であるとも思っている。

  • 若いころから自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった。

  • 俺は、その日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。

  • 事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。

  • 俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。

  • 予算を軽視して、どうして満足すべき決算が得られようか

  • 6か月間の獄中生活の苦悩は、おそらく経験者でなければその心境を推察することは不可能であろう。私はこのときが人間として最低生活であった。だが、こういうときにこそ人間の日ごろの訓練とか修養とかがハッキリ出てくるものである。

  • 私は、新橋駅での東京高速鉄道と東京地下鉄の相互乗り入れが必要と考えたが、東京地下鉄の創立者で社長であった早川徳次はガンとして自説を曲げないのみならず、かえってあらゆる手を使って阻止運動を激化してくるのであった。そこで東京地下鉄の経営権を掌握して、早川を追出すより方法はないと考え、昭和十四年の夏、当時大日本電力と北電興業の二つの会社をやっていた穴水熊雄氏のところへ日参したあげく、ようやく同氏の持っていた東京地下鉄株を四十五万株譲り受け、ついに早川を追出して現在のような地下鉄をつくり上げたのである。早川は早稲田出身だから慶応閥の銀行は早川を擁護しなかった。この時は、苦心惨憺して日本ではじめて地下鉄を作り上げた早川を容赦もなくたたき出して、粒々辛苦して作り上げた早川の事業を奪い取ったというわけで、世間は早川に同情するし、私はずいぶんたたかれたものである。

  • 官吏生活を送ること九年間、その間課長を一年半ばかりやって、後に述べるように武蔵電気鉄道の常務に就任するため、大正九年五月十一日鉄道院を辞めたのであるが、そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった。

  • ときにはやむを得ず、株買い占めという強硬手段をとらざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活まで考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである。

  • 私は沿線の人たちに「良品を廉価に」提供する目的で東横百貨店を渋谷に作った。

  • 人間は時々、努めて頭を空っぽにしなければだめだ。

  • 私は「予算即決算主義」というものを確立して、これをキップ切りにまで徹底させた。私は今でもこれを事業経営の哲学としているが、東横電鉄などもこの間を苦心惨胆して持ちこたえて来たればこそ、今日の盛大をみることができたのである。

  • 昭和初頭の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。ときには社員の給与にも困難し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園をションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首吊り用に見えて仕方がなかった。しかし、いまにして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった。

  • 若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になってくる。そうすると夜熟睡できるので、また明日への活力が出てくるのである。これが私の健康法である。

  • 私はとにかく、「強盗慶太」の異名を頂戴するくらいであったから、事業のための私であり、事業あってこその生涯だった。

  • 大臣になったお陰で戦後五年間ほど追放になってしまったが、その間は好きなお茶や古写経を見て暮して来た。追放中会社のことに口を出したというので、追放令違反として告訴されたがこれも追放解除とともに自然消滅し、再び東京急行へ復帰して采配をふるっている次第である。

  • 最近よく人から、あなたにも昔はご婦人とのロマンスぐらいはあったでしょう、と聞かれるのだが、正真正銘私にはロマンスなどというものはない。もし私にロマンスがあったとしたら、女に惚れていたとしたら、今日の私はあり得なかったろうと思う。事業に対する野心がロマンスを征服してしまったというか、惚れたのはれたのということを考える余裕もなかったのである。

  • 三昧ということが必要である。女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になる、すなわち「空」になるということが必要である。

  • 事業場から墓地に直行したくないとは考えているが、事業こそ私の生命であるとも思っている。

  • 人の成功と失敗の分かれ目は、第一に健康である。次には熱と誠である。体力があって熱と誠があれば必ず成功する

  • 孤独な者は、もっとも強い

  • 東横電鉄では、私のために慰謝金として株主総会の決議により五万円を贈呈してくれたのであるが私としてはこの金をもらうわけにはいかず、ひとつこれを教育事業に使って見ようと思い、この五万円に私財十二万円を加えて十七万円の金で東横女子商業学校を設立した。前述のように私は元来教育事業というものには情熱をもっていたのであるがこの女子商業学校が、後に財団法人東横学園となり、現在の学校法人五島育英会として幼稚園から大学までの総合教育機関にまで発展して来たことを思うと、何かの因縁があるような気がして感慨ひとしおである。

  • 一週間に一回、嘉納治五郎先生から倫理の講義を聞いたが、先生は柔道の格好で太い腕節を出して「なあに」という精神が一番必要だ、どんなことにぶつかっても「なあに、このくらいのこと」というように終始考えろということを言われた。先生の「なあに」精神はいまでもはっきり頭に残っている。

  • 一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

五島慶太の名言を見ている方へお薦めする名言

五島慶太の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

五島慶太について

五島慶太は大正から昭和にかけて活躍した経営者。目黒蒲田電鉄の創業に参加して社長になると、池上電気鉄道,東京横浜電鉄,玉川電鉄,小田急電鉄,京浜電気鉄道,京王電気軌道といった鉄道会社を次々に合併し、東京急行電鉄に統合。住宅建設や百貨店運営など関連事業も発展させて東急コンツェルンを築き上げた。
1882年(明治15年)長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農家を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる。一家は資産家であったが、父が製糸業など事業に失敗して家計は苦しかったという。中学校卒業後は小学校の代用教員をしながら進学を目指し、当時学費のいらなかった東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学。卒業後は高等学校の英語教師になるが、学校になじめず退職し、東京帝国大学に入学する。1911年(明治44年)東京帝国大学法科を卒業して農商務省に入省。鉄道院に配属となる。1912年(明治45年)実業家・政治家の久米民之助の長女・万千代と結婚。万千代の祖母の家系、五島家を再興し、五島姓を名乗る。1920年(大正9年)五島慶太は鉄道院を退職し、武蔵電気鉄道常務に就任。その一方で荏原電気鉄道(のちの目黒蒲田電鉄)の設立に関わり、社長を任される。1924年目蒲線が全線開業すると、前年の関東大震災で焼け出された人々が次々に移住し、荏原電気鉄道の業績は一気に向上。その利益で五島慶太は武蔵電気鉄道の株式の過半数を取得する。その後、池上電気鉄道,東京横浜電鉄,玉川電鉄,小田急電鉄,京浜電気鉄道,京王電気軌道などの鉄道会社を次々に買収。さらに沿線で住宅開発や百貨店事業などを営み、鉄道事業を中心とした財閥、東急コンツェルンを築いた。さらに1944年(昭和19年)には東条英機内閣の運輸通信大臣にも就任する。

しかし、第2次世界大戦が終わると、東條内閣の閣僚だったとの理由で五島慶太はGHQから公職追放され、政治活動はもちろん、企業での役職もすべて辞任した。公職追放後は表立って活動はしなかったものの、企業への助言を通じて経営には参加。公職追放解除後は東京急行電鉄会長に就任した。定山渓鉄道や北海道各地の乗合バス会社による北海道開発、伊豆の観光開発など旺盛な経営活動を続けた。1959年(昭和34年)五島慶太は病に倒れ病没した。享年77歳。