小林一三

阪急グループ創業者

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小林一三の名言

小林一三の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 百歩先が見える者は世間から狂人扱いされる。現状に踏みとどまる者は落伍者となる。十歩先が見えて事を行う者が世の成功者となる。

  • 議論をしてはいけない。議論の根本の目的は実行にあり、実行するときに初めて議論の値打ちがあって、もし実行の伴なわない議論ならば三文の価値もない空論である。

  • 金がないから何もできないという人間は、金があってもなにも出来ない人間である。

  • 「賢そうな馬鹿」は他人の偉さを知らないのである。他人の美点長所を見ようという気持ちが全くない。自分の説がよいと早呑込みをしている人である。お互いに戒心したいものである。

  • 百歩先の見えるものは、狂人扱いされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが、成功者である。現在が見えぬのは、落伍者である。

  • われわれの社会生活といふものは、自分さへ儲かれば他はどうなってもよいといふものではない。

  • 「議論は手段であって目的でない、目的は実行にある」のであるから、自分の説を実行させればよいので、自説を発表する必要はない。むしろ自説を発表せずして、実際に行わせるのがよい。

  • 乗る人がいなくて赤字になるなら、乗る客をつくりだせばよい。

  • どうでもよいことは頑張らずに譲る。しかし年中譲っていては人間の心の底を見られるから、九つ譲っても一つがんばれ、これは私がよいと思っていることであります。

  • 下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰もきみを下足番にしておかぬ。

    出典:  小林一三「私の行き方」

  • 真心で人に接するということは、必ず人を動かすもので、たとえ敵意を持っている人でも、いつかは好意を持ってくるようになります。単に感じが悪いくらいの人なら、誠意を尽せば、一層よい味方となってくれるでしょう。

  • 必ず偉くなる秘訣は「縁の下の力持ち」をするに限る。それは己を捨てて人のためにはかることだ。

  • 人間というもののいくべき道は一つしかない。それは自分自身を偽らぬ、確固たる思想、不動の信念が何事をするにも一番大事である。人を頼り、人に期待することは一番いけない。

  • 青年よ、独立せよ。大会社にあこがれるな。商売はいくらでもある。仕事はどこにでもある。

  • 新事業の準備が十分に整ったら即突進すべし。1、2、3、ではいけない。2は迷いである。自信のなさである。

  • サラリーマンに限らず、社会生活において成功するには、その道でエキスパートになる事だ。ある一つの事について、どうしてもその人でなければならないという人間になることだ。

  • 成功の道は信用を得ることである。どんなに才能や手腕があっても、平凡なことを忠実に実行できないような若者は将来の見込みはない。

  • しくじっても咎めない。しくじった人にもどしどし仕事をさせる。しくじったからといって、その人に仕事をやらせないのは、そのしくじっただけの経験を捨てることで損な話である。

  • 世の中で、百歩先の見える人は変人扱いをされる。50歩先の見える人の多くは犠牲者になる。ただ、一歩先の見える人のみが成功者となるのだ。しかも、ただその一歩の違いに過ぎぬが、その手前の一歩さえ見えぬものは落伍者である

  • 古い殻の中にとじこもって、この時代の急流に気づかぬ人々、旧式のものの考え方から脱し得ぬ人々は、近き将来においてまったく途方にくれなければなるまい。

  • 世の中へ出るのは、つまり自分の思うようにならないということを経験する為である。

  • 新事業の準備が充分にととのったら即突進すべし。一、二、三ではいけない。二は迷いである、自信のなさである。

  • サラリーマンとして成功したければ、まず、サラリーマン根性を捨てることだ。

  • 映画の料金を50銭均一にしたのは、大衆によき映画をよき席で安く提供せんがためである。均一料金だから入場券売場も一ヶ所ですむし、案内係も少人数ですむ。また場内も等級による客の区別や整理をしなくてすむから人手が従来の映画館の半分ですむ。人件費が少なくてすむので、それだけ安い入場料でもソロバンは合っていく。

  • 今日の若い人々は学校を出て就職する時、名の通った大会社に入りたがるが大会社に入れば一生楽に暮らせるわけではない。どこでも激しい生存競争はあるし、偉そうに振舞えても単なる機構の一部の上で踊っているかかしに過ぎぬ。

  • 誰にも夢がある。それはたとえ小さくともその夢がふくらみ花を咲かせ、立派に実るのを見るのは楽しい。

  • 自分の持つ長所を確信することである。確固たる思想を飽くまでも維持することである。訓練式タイプ型のみに憧れず、何人も持つ自分自身の長所を顧みて、それに磨きをかける人の多からんことを切に希望する。

  • 彼には到底難しいとかいう風に考え出すと、いかなる人にでも欠点があるのであるから、ちょっと責任を持たせにくくなってくる。

  • 人に頼る事は失敗の第一歩である。最後に頼むものは自分以外には決してあるものじゃない

  • 平凡なことを繰り返し一年二年三年と、行なっているうちに、人から認めれて、出世の道が開かれる。このような平凡の非凡を発揮することが大事である。

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小林一三について

小林一三は箕面有馬電気軌道の立ち上げに関わったのを皮切りに、関西で鉄道網の整備と沿線開発で巨大鉄道企業・阪急グループを築いた。その事業には、宝塚歌劇団、阪急ブレーブス、阪急百貨店など多岐に及んだ。さらに政界にも進出し、戦前には第二次近衛内閣で商工大臣を務めた。第二次大戦後にも幣原内閣で国務大臣に任命されたが、GHQにより公職追放処分となった。

1873年(明治6年)現在の山梨県韮崎市生まれ。実家は豊かな商家だったが、幼くして母を亡くし叔父夫婦に引き取られた。文学に興味を持ち、17歳の頃小説「練絲痕」を地元の新聞「山梨日日新聞」に連載していた。1892年慶應義塾を卒業し、小林一三は文才を活かせる新聞社に入社を試みるも叶わず、三井銀行に入社。1907年(明治40年)三井銀行を退職し、新設される証券会社に入社するため大阪に向かう。しかし、証券会社の新設は頓挫してしまい、阪鶴鉄道監査役に就任したが、4ヶ月で辞任。さらに小林一三は箕面有馬電気軌道株式会社創立の発起人に名を連ね、設立後は専務取締役に就任した。この頃社長は不在だったため、小林一三が実質的に経営を行っていたという。1910年箕面有馬電気軌道は宝塚本線・箕面線で運行を開始。同時に鉄道沿線に住宅地を開発し、サラリーマン向けの安価な価格で分譲、さらに割賦販売も取り入れて成功を収めた。翌年には宝塚新温泉の営業を開始、1913年には宝塚歌唱隊(現在の宝塚歌劇団)を組織するなど、沿線の魅力を高めて鉄道経営や宅地開発との相乗効果を生んだ。1918年(大正7年)箕面有馬電気軌道株式会社を阪神急行電鉄株式会社と社名変更した。その後も、阪急ビルディング、宝塚大劇場の建設、宝塚ホテルの設立などを進め、1927年(昭和2年)小林一三は取締役社長に就任。1929年(昭和4年)阪急百貨店の営業開始、1934年(昭和9年)東京宝塚劇場設立を経て、阪急電鉄社長を辞任し会長に就任。1937年(昭和12年)東宝映画株式会社創立。その後、小林一三は政治の世界にも関わり、第2次近衛内閣では商工大臣に任命された。第二次大戦後、幣原内閣で所管省庁のない国務大臣に任命された。しかし、戦前の近衛内閣で大臣であったことが問題視され、GHQから公職追放され、企業・政界での役職はすべて退いた。公職追放解除後の1951年(昭和26年)東宝社長に就任している。1957年(昭和32年)小林一三は急性心臓性喘息のため死去。享年84歳。