鳥井信治郎

サントリー創業者

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鳥井信治郎の名言

鳥井信治郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 好きやったら好きで、一生懸命やりなはれ。そしたら自然にでけるようになる。あとはとことんまでやり抜くだけや。

  • ホンモノをやりなはれ。ニセモノはいかん。もってのほかですわ。

  • 上司といいますか、管理職が、部下に対して「やってみなはれ」と、こう言うわけですね。それと同時に、その「やってみなはれ」だけではいかんので、やったあとの結果については、「おれがその骨を拾ってやるぞ」「失敗してもいいじゃないか」と。

  • 社長になって考えてみましたら、やっぱり小理屈を並べておっても、物事は運ばない、ともかく実行をまず第一に考えて、それからその中でいろいろ学びながら、第二段階のアクションを考えていったらいいんじゃないかということなんですね。

  • やってみなはれ。やらなわからしまへんで。

  • やってみなはれ」というのは、おやじがわたくしに、もう百万回も言うとったわけです。耳にタコができるほど。

  • 人生とはとどのつまり賭けや。やってみなはれ。

  • いくら広告しても、肝心の商品が上等のものでなかったら、あきまへん。広告をするにも自信をもってできんし、お得意さんのほうで、あれは宣伝ばっかしやといわれたら、それでお仕舞いや。まずとび切りええもんをつくるこっちゃ

  • 開拓魂や。寿屋の創業以来の精神やで。そやなかったら、アメリカにもヨーロッパにもあれへん、英国だけにしかないスコッチタイプのウイスキーをつくろうなんて考えてへん。

  • 60何年、酒、酒、酒で苦労してきとる。なんぼバカでも、60年もやればものも分かりまっせ。お金もちいとばかりはできまっせ。

  • どんな酒かて寝かせれば、ええ味に変わるかもわからん。

  • やってみては考え、やってみては修正し、まさに度胸とパイオニアスピリットが今日のサントリーの礎を築いてきた。

  • 阿呆なことはやめなはれ。カネ儲けの方法はなんぼでもあるけど、そんなことで儲けたかて仕様おませんで。

鳥井信治郎の名言を見ている方へお薦めする名言

鳥井信治郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

鳥井信治郎について

鳥井信治郎はサントリーの創業者。丁稚奉公に出た後、20歳で独立して「鳥井商店」を設立。ワインの製造販売で成功し、大正期にはワインの国内市場の60%を占めるまでになったという。さらに、日本で初めてのウイスキー蒸溜所を建設し、初の国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を生産した。

1879年(明治12年)大阪市北区で商人の次男として誕生。13歳で薬種問屋の小西儀助商店に丁稚奉公に出る。当時の薬問屋は医療用の薬のみならず、外国の薬を輸入している関係で舶来品を扱っており、ワインやウイスキーの輸入も行っていた。鳥井信治郎はそこで洋酒に関する知識を蓄えた。1899年(明治32年)大阪市西区で「鳥井商店」を創立。1906年(明治39年)「寿屋洋酒店」と名前を変え、スペイン産ワインの輸入販売を始めるが販売は振るわず、日本人向けの「赤玉ポートワイン」の製造、販売を始めると大ヒットとなった。1921年(大正10年) 株式会社寿屋に会社の名称を変更。「赤玉ポートワイン」で成功を収めた鳥井信治郎は、次にウイスキーの製造に乗り出す。スコットランドから技術者を招き、さらに「赤玉ポートワイン」の委託先でもあり、スコットランドでウイスキーの蒸留を学んだ竹鶴政孝の協力も得て、日本初のウイスキー蒸留所「山崎蒸溜所」を建設。1929年(昭和4年)初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」と「サントリーウイスキー赤札」」を発売。このとき赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立てたサンと、「鳥井」という名字から、「サントリー」のブランドが誕生した。しかし、発売を急いだゆえの貯蔵年数の短さや、発酵技術の未熟さでウイスキーとしての品質が十分でなく、販売は低迷、寿屋は経営不振に陥ってしまう。1937年(昭和12年)「サントリーウイスキー12特角」、1940年(昭和15年)サントリーオールド誕生。これらのウイスキーも当初は売れなかったが、1941年に太平洋戦争が始まり、燃料用のアルコールの製造や、兵隊向けの酒の販売で寿屋の経営は一気に上向く。終戦後にはウイスキーの販売が急速に伸びた。そして1960年(昭和35年)高級ウイスキー、サントリーローヤルを発売。1962年(昭和37年)急性肺炎で死去。享年83歳。株式会社寿屋は鳥井信治郎の死後1963年(昭和38年)にサントリー株式会社に商号変更。ワインやウイスキーだけでなく、ビール、清涼飲料水などにも進出し、日本を代表する飲料メーカーグループとなった。