早川徳次
シャープ創業者
早川徳次の名言
早川徳次の過去の名言をまとめた名言集です。
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教わって憶えたものは浅いけれど、自分で苦しんで考えたことは深いんですよ。
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真似するより、真似される商品をつくれ。他が真似てくれる商品は需要家が望む商品、つまり売れる商品である。だから、いつも他が真似てくれる商品を出すように心掛けていれば、企業は安定して成長していく。
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事業経営は不況のときに伸びよといわれている。それは不景気のときに屈することなく、次に来る好機に伸びていく準備をすることだと思う。景気の波に乗ることは誰しも可能である。しかしそのときにすでに危険をはらんでいることも忘れてはならない。
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かつて行っていた金属加工の事業が順調に進んでいったとすると、おそらく私はシャープペンシル製造に生涯をかけて金属文具界で終始し、いまのように電気器具メーカーとして大阪に住むこともなかったと思われる。運命というものは全く予想を許さない。
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つね平生、よく勉強していて、ほかでできないものをたった一つ発見するなら、その人は成功するだろう。
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我らの事業の完成は決して単なる個人の野心や自己満足だけでいいわけはない。事業の公共性という点から私は事業達成の目標は、より良く、より高い社会への奉仕と感謝の実行であると信じたいのである。
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「入るを量って出を制す」とは言い古された言葉だが、まさに企業の基本として動かない戒めである。もし規制された予算通り実行できる企業があれば、その企業は必ず安定堅実である。
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私に人員の整理などできる話ではなかった。私は人員の整理をやるくらいなら、むしろ会社が閉ざされる方を選ぶであろう。会社がつぶれても従業員諸君と一連託生ならばもって瞑すべきではないか。
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私の会社が戦後他社に先駆け、国産テレビの本格的試作に成功したことも、またテレビ本放送が開始されると同時に量産体制に入れたことも、決してそれと調子を合わせて一朝一夕にポンとできたものではない。いずれもそれまでの長年の研究がものをいったのであった。
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私はラジオ事業参入への機を待っていた。準備は万事整っており、すかさず本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、やがて市販に移した。機敏も商売のコツである。おそろしく売れ、つくってもつくっても需要に追い付かなかった。
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よいアイデアが生まれるのは儲からなくてなんとかしようと苦しんでいる時である。だから私は、儲かることをあまり喜んでいない。
出典: 「シャープを創った男 早川徳次伝」
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常に他より一歩先に新境地を拓かねば、到底事業の成功は望まれない。これは年来の私の信条である。それで私が異常なまでに新しいラジオ機械へ関心を持ったのも、当然といわねばならぬ。
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どうしてもやろうという熱意があったらなんでも出来る。
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関東大震災に出くわしてぺしゃんこになった私は、それまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにどこかへ吹っ飛んでいった感じがした。見渡す限りあたりは廃墟である。文明は一瞬のうちに没落したように見えていた。自分の事業復興の目鼻も到底早急には立ちそうもなかった。
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私たちの夢に関連のある超短波研究が偶然のようにやってきた。しかし、よく考えてみると決してこれは偶然ではなく、偶然をつくりあげるような下地のある我々のところに偶然やってくるべくしてきたともいえる。この長い月日の技術の蓄積が、やがて他社を抜いていち早く国産テレビの完成となり、そのその量産に向かってスタートできたのである。
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現在我が社は5つの蓄積を社是として実践している。「信用」「資本」「奉仕」「人材」「取引先」以上5つの蓄積である。私たちは5つの貯蓄の精神を基盤にしてその実践を身近い現実のものに見て、今日から明日へと自分たちの周りをさらに充実していきたいものである。
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第二次大戦後に赤字が続いていた頃、かわいい社員のクビを切ってまで、自分は会社を存続させられない。社長を辞し、会社は解散する。社員を憂き目にあわせてまで、自分はもう、ものを言えない。残った人間で会社を続けてよいが、自分はタッチしない、私は従業員たちにそう伝えた。
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私は天災のためとはいえ、一度は東京の事業に躓きもした。また、血涙のにじむような経営苦に喘いだことも一再ならずあった。そして自身は生死の巷をさまよい、肉親の何人かを不慮の厄災に失っている。しかし、現在の私が、広く社会と諸々の人たちから数え切れぬほどの恩恵を受けて事業一筋に生きていける幸福を思うと、ひとしお感謝の念が湧いてくるのである。
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商売を始めて以来、シャープペンシルの外交など過去の販売経験は、私にとって力強い自信となっていた。
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経営理念で精神面の問題も重視した。愛社精神や団結心などもなおざりにはしなかった。常に社内上下のつながりを緊密にし、かねがね自分の提唱している人材の蓄積という言葉をモットーに、温かい結びつきを片時も忘れなかった。これは外部に対する人間尊敬の心、信義に踏みたがえない気持ちにも合致するものと考えている。
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早暁4時を期して起床した。起きてすぐ作業だった。1日の経費を朝食までに稼ぐという計画を立てて、休みの時間というと食事の間だけ、夜業をやって10時にしまう。なおそれで済むのではなく、雑用と外交はそれからの仕事になっているという寸法である。私の創業時代のこれが風景だった。
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私の苦労は宿命のようだった。時代も違っていた。私は自分が過去にやってきたことをいまの人たちに強制しようという気持ちはさらさらない。ただ苦労に明け暮れたころがいまとなってみると限りなく楽しい思い出となっているのである。
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私は嘘をつかないこと、他人様に迷惑をかけないことを主義としている。また世間と多くの人たちから有形無形の恩恵を受けて生活していることに対する大きな感謝と同時にそのお返しを念願としている。
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社会に対してお返しもしない事業を持って、「事業は趣味(遊び)ではない」などとは言ってもらいたくない。
出典: 早川徳次「私の履歴書」
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「経営五カ条」一.近所をよくする。近所を儲けさせる。二.信用、資本、奉仕、人、取引先、この五つの蓄積を行え。三.よい人をつかんだら、決して放すな。四.儲けようとする人は、儲けさえあればいいんだ。何事にも真心がこもらない。五.人によくすることは、自分にもよくするのと同じだ。人を愛することは、自分を愛するのと同じだ。事業の道も処世の道も、これ以外のものはない。
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昭和24、5年の苦しさは私の骨身に徹した。こんなことは2度と繰り返したくない。普段からあらゆる場合に対処できるよう、石橋を叩いて渡る経営に踏み切ろうと固く誓った。
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職人たちは自分の技術を取り立てて後輩に教えるようなことはなかった。職人は長年の間に自然と仕事のコツをのみこむので、ヤスリひとつ使うにもその腰と手が上手く調和していないと、ぴったりと平らなものに削ることはできないものだ。こんなことは口で言ってもなかなか会得のいかぬもので、みんなが長い年月熟練の結果、それぞれ自得するよりほかはなかった。
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予算と見合った決算を得るためには正確な期末決算の予測を立てなければならない。それには当然、合理的で緻密な計数管理が要求されてくる。工場、支店営業所の末端に至るまで周到、克明な数字の裏付けを必要とする。我々は経済情勢の掌握と、それに対する柔軟な適応性を兼ねもってこの計数管理の徹底を約した。日々の営業部門の実績報告は無論のこと、品質会議、部長会議、さらには週初の重役会議と、すべてが実際の係数による資料を基本にしての狂いのない経営の樹立であった。
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会社再建に没入している最中に朝鮮動乱が起きた。にわかに産業経済界が活発となり輸出の急増、内需の活況が目立ってきた。社の滞貨も一掃され、この下半期には久々の黒字決算を行った。三期にわたる難行にもようやく明るい陽射しが見えてきた。我が新製品シャープスーパー受信機がさっそうと市場に登場した。だが、この期には前の経営の空隙を埋めることにとどめ、設備の新設拡張にまでは手を出さなかった。
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丁稚奉公先の主人の坂田芳松さんは昔かたぎの生粋の江戸っ子で、人情にも厚い人であった。私は社会の第一歩で、こうした人に会ったことは実に幸せなことで、何ものにも代えがたい収穫だった。逆境にあった私が、万一ここでも冷たい仕打ちをされていたら、果たしてどうであったろう。私は終生この主人から受けた情義を忘れることはできない。
早川徳次の名言を見ている方へお薦めする名言
早川徳次の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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自分はこれが好きだと思い、自分はこれを職業としたいというものを発見させるのが、教育の主眼のひとつであろう。
本田宗一郎 本田技研工業創業者
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必死に闘っている時よりも、上手くいっている時の方が心配だ。何もかもが順調なときは、突然何かが台無しになるのではと気になって仕方がなかった。
ウォルト・ディズニー 実業家、アニメーター
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漫画家は、刀をペンに持ち替えた永遠の浪人だ。頼れるのは自分独り。自立してクリエーターと名乗れるようになるまでが、いかにすさまじい道のりか。退職金も年金もない。いつ奈落に落ちるかもしれない。
松本零士 漫画家、イラストレーター
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外からいろんな人がきて演出し始めることになるんですけども、そうすると、たとえば文学座なら文学座に籍がある演出家がきても、仕事として一本の戯曲を演出しただけで、終わって帰るわけですね。日常生活の変革もしてくれなきゃ、関わり方も職業的。それじゃあ俳優は育たないよな、とぼくは俳優の立場で長い間、思ってたわけ。
蜷川幸雄 演出家、映画監督
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小説書くのはめっちゃ楽しかった。どんどんできていく喜びがありますから。一回小説書いたら絶対癖になるみたいですね。
又吉直樹 お笑い芸人、小説家
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群れない。独りで生き抜く覚悟があってこそ、真のコラボレーションが実現するんだ。
武田双雲 書道家
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うまくいくとわかっているなら、それは実験とは言えない。
ジェフ・ベゾス Amazon.com創業者
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「あいつはすぐに消えるだろう」ともたくさんの人に言われました。
松浦勝人 エイベックス創業者、音楽プロデューサー
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自分がやりたいことをやるんではなくて、どういう方向でやって欲しいかを考えて仕事しています。
林修 予備校教師、タレント
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僕は、自分も走るが、みんなを鷲づかみにしながら走るタイプ。ばっとみんなを集めて、周囲を巻き込む。それぞれの知恵や意見を集めて、すぐに決めて動くスタイル。
玉塚元一 元ファーストリテイリング社長、元ローソン社長
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従来と同じ方法では解決できないことが多いですし、基本は現状否定の姿勢で臨んでいます。
似鳥昭雄 ニトリ創業者
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人がやったというニュースだけで日本では同じものがすぐにできるという不思議な性質がある。これはそれをつくるだけの技術力は十分持っていながら、これを思い切って企業化しようという勇気に欠けていることを証明しているようだ。すべての分野で日本の技術力に自信を持ち、思い切った決断を下せるようになったときこそ真の日本の暁は訪れるだろう。
井深大 ソニー創業者
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そもそも技術は人のためのものであり、人が技術のために存在するのではありません。ですから私がよく技術チームのメンバーに言うのは「顧客に近い存在であれ」ということ。
ジャック・マー アリババグループ創業者
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忙しさにこれで十分ということはない。アリも忙しいのだ。問題は、なぜそんなに忙しいのかということである。
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仕事を選ぶときに、ややこしく考えてしまうと、理屈が先行しちゃう。だから、できるだけシンプルに考えて選択していますね。自分が本当にそれを望んでいるのかどうか。その気持ちに添っていくべきだと思っています。
渡辺謙 俳優
早川徳次について
早川徳次は大正から昭和にかけて電機メーカー・シャープを創業し、日本有数の総合電機メーカーへと成長させた実業家。早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)を発明したことでも知られる。日本でいち早くラジオ、テレビの試作に成功して業績を伸ばし、その後も太陽電池、卓上計算機などに進出して会社を発展させた。福祉活動にも力を注ぎ、障がい児のめの保育所や福祉施設、障害者が多く働く工場を設立した。
1893年(明治26年)11月3日現在の東京都中央区日本橋に生まれる。父・早川政吉はちゃぶ台やミシンの製造業を営んでおり裕福だったが、早川徳次が生まれてまもなく母・花子が病に倒れたため養子に出された。養子となった出野家は貧しく、さらに養父母が離婚し、継母に杜撰な扱いを受けるという悲惨な少年時代を送った。小学校は2年で退学し、9歳で飾り職人の丁稚となる。1912年(大正元年)早川徳次は独立し、丁稚奉公で身につけた技術を生かして金属加工業の会社を始めた。1915年(大正4年)早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)の販売を開始。販売開始当初はさほど売れなかったが、高い耐久性が評価されて国内だけでなく、海外でも販売を伸ばし、大規模な工場を構えるまでに事業は成長した。
しかしながら、1923年(大正12年)の関東大震災で被災。工場が壊滅した上に妻子までも失ってしまう。資金的に行き詰まった結果、事業を日本文具製造に譲渡することとなった。すべてを失った早川徳次は翌年に大阪に移り、早川金属工業研究所を設立し社長に就任。金属加工業を営みながら新規事業のラジオにも取り組み、1925(大正14年)年のラジオ放送開始に合わせて小型ラジオを販売開始し、好評となった。1942年社名を「早川電機工業」へと改称。第二次世界大戦終結後の1951年(昭和26年)、国産で初めてテレビ受像機の試作に成功し、1953年(昭和28年)テレビ放送の開始とともに発売した。さらに洗濯機や冷蔵庫、電子レンジなどの白物家電や、卓上計算機、太陽電池などの事業へと進出。早川電機工業は総合家電メーカーとなっていく。1970年(昭和45年)社名を「シャープ」へと変更し、社長から会長へと退いた。1980年(昭和55年)死去。享年86歳。