伊藤忠兵衛

伊藤忠商事創業者、丸紅創業者

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伊藤忠兵衛の名言

伊藤忠兵衛の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 私は、ただ真一文字に進む勇気だけは絶やさなかった。あらゆるものを執着せずに手放した。そこから道が拓けたのである。

  • 悪いとき、落ち目のときに人間はすべてをさらけ出すものだ。

  • 勉学が目的だが、実家の織物の仕事もあるから、有名大学を避けて最初ロンドン大学に行った。経済学部で講義を受けたがさっぱりわからぬ。ところが下宿屋へ帰って教科書を読むと大半理解できる。これで私は通学しなくとも勉強できると考え、本ばかり買い入れて商売の方に精を出した。

    出典:  伊藤忠兵衛「私の履歴書」

  • 長い間に自分が得た商売人としての小さな哲学は、商人はいかなるときでも嘘をいわぬこと、というものである。数字なるものは非常に正直な生きものであるから、一度、嘘をつくと何倍かになって暴れ出す。

  • およそ商業者の貴む所は機敏にあり。

  • 私は勉学よりも商売の方が面白くなってきた。ここでひとつ、私の胸に油のように広がってきた野心は、日本は将来外国製品輸入よりも、自国で製造すべきだということであった。

  • 商売人はいかなる事があっても嘘を言わぬこと。

  • 別に聖人風をふかす要はないが、私にはまったく別の世界であった。父を失ったことと、番頭兼主人なので若いながら責任を感じたのか、英語の勉強と商品の研究に、出張地帯では夜はまったく僧院生活の様式を続け、自然、変り者の扱いをされた。青春というものに時間を見いだせず自発的に遠ざかり、呉服屋らしからぬ生活を続けた。

  • 欧州大戦が始まってから、実業界の人は皆いい気になって豪勢な暮らしをしているのに、武藤山治さん(元鐘紡社長)だけは奥さんの作った弁当を下げて、住吉から毎日汽車で兵庫の工場に通っていた。これを見て私は武藤さんも時勢に遅れたなと感じたことがあった。しかし、相場が暴落し、いままで宴会ばかりやっていた連中は尾羽打ち枯らし、銀行に頭を下げて回っている中で、武藤さんは相変わらず平然と弁当箱を下げて兵庫の工場へ通っている。やはり武藤さんは偉いなとつくづく感心した。

伊藤忠兵衛の名言を見ている方へお薦めする名言

伊藤忠兵衛の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

伊藤忠兵衛について

伊藤忠兵衛は江戸時代後期から明治時代にかけての繊維商人。伊藤忠兵衛が創業した伊藤忠商店は繊維商として大発展を遂げた。そして第二次大戦後、過度経済力集中排除法によって、伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割された。

1842年(天保13年)7月2日、近江国犬上郡(現在の滋賀県中部)に生まれる。伊藤家は代々続く繊維問屋であった。11歳の頃から麻布の行商を始め、1858年(安政5年)に伊藤長兵衛とともに近江国犬上郡で麻布商人を開業。のちに兄は博多で伊藤長兵衛商店を開業。伊藤忠兵衛は1872年(明治5年)に紅忠という織物商を開業した。1884年(明治17年)紅忠は伊藤本店と改称。翌1885年(明治18年)には伊藤外海組を設立してアメリカとの貿易取引を開始した。1894年(明治26年)近江銀行の創立に参加。さらに伊藤忠兵衛は伊藤糸店を設立して綿糸の取扱を開始。1895年(明治29年)日東合資会社を設立して中国産の綿の輸入と、日本産の綿の輸出を取り扱った。1903年(明治36年)に伊藤忠兵衛は死去。享年60歳。

伊藤本店や他の関連会社はその後も合従連衡を繰り返しならがら成長し、1994年(昭和19年)に大型合併して大建産業株式会社という巨大繊維商社となった。しかしながら、1949年(昭和24年)過度経済力集中排除法の適用を受ることになり、伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所に分割された。