豊田喜一郎

トヨタ自動車創業者

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豊田喜一郎の名言

豊田喜一郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 今日の失敗は、工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく。

  • やれるか、やれぬかではなくて、誰がやるかなんだよ。

  • エンジニアは一日にして出来るものではない。有無無象が集まって出来るものではない。数百人のエンジニアを保護し、生活の安定と研究の自由を与えることが必要であって、その経費も決して高いものではないと思う。

  • 同じ物を千個作ると、たいがいの職工は手が慣れて間違いのない物を作るようになります。最初の数百個の中には良い物もできますが、手が定まるまではこれを捨てるくらいの覚悟は必要であります。

  • 作ってやる、売ってやるではいけない。買ってもらう、作らしてもらっている、という気持ちでなくてはいけない。

  • 手が油まみれになっているか?

  • 誰もあまりやらないこと、やり難いことをものにしてみせることに人生の面白みがある。

  • 一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります。

  • 臨時出勤と残業とを徹底的に取締まり、ベンベンダラダラと仕事せざること。

  • できないという前に、まずやってみろ。

  • 技術者には一つの意地がある。やりかかったらそれを完成して見たいという意地である。

  • フォードがどんな方式を取っておろうと、トヨタはトヨタでやります。フォードよりすぐれた方式を打ち立てねば、フォードに勝てません。

  • 私たちはやがて自動織機をつくり、さらに紡機をつくります。紡機ができて軌道に乗ったら自動車をつくります。

  • 技術者は実地が基本であらねばならぬ。その手が昼間はいつも油に汚れている技術者こそ、真に日本の工業の再建をなし得る人である。

  • もちろん、人のやったものをそのまま輸入する必要もありますが、何と云っても、苦心してそこまでもって行った者には尚それをよりよく進歩させる力があります。人のものをそのまま受け継いだものには、楽をしてそれだけの知識を得ただけに、さらに進んで進歩させる力や迫力には欠けるものであります。日本の真の工業の独立をはからんとすれば、この迫力を養わなければなりません。

  • 言った通りにやれ、それでできなくても文句はいわぬ。

  • 当然儲かる事業を当然な方法でやってゆくよりも、だれも余りやらない、またやり難い事業をものにしてみる所に人生の面白みがあるもので、できなくて倒れたら、自分の力が足りないのだ。

  • 私はすかんぴんになってもやる。仲間になってくれ。

  • どうせやるなら、世人の一番難しいという、大衆乗用車を作ってみようという立場からやりたかったのです。

  • どんな些細な欠陥でも、本質に立ち返って見直しなさい。

  • 発明は知識そのものよりも、それをいかに自分のものにしているかにかかわる。学校を出ない人が往々にして相当な発明をするのはそれ故である。これを世の人のために活用し得るまでには、いろいろな研究と大きな努力がいる。その努力の中に発明が生まれてくるものだと私は思っている。発明は努力の賜である。

  • 技術は金で買えない。個別の技術ですぐれたモノは海外から導入してもいいが、大きな技術の体系、産業としてのシステムは、自前で組み上げないと決して定着しない。

  • 誰にもできる仕事なら、私には魅力はない。

  • 私は「過不足なきよう」、換言すれば所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さないようにする事を第一に考えております。無駄と過剰のない事。部分品が移動し循環してゆくに就いて「待たせたり」しない事。「ジャスト、インタイム」に各部分品が整えられる事が大切だと思います。これが能率向上の第一義と思います。

  • 誰もあまりやらない、またやり難い事業をものにするところに人生の面白味がある。

  • 汽車に乗るのに一分のことで乗り遅れたというが、一分どころか一秒だって遅れたら汽車には乗れない。かといって、駅に行くのが早すぎれば、汽車が来るまでぼんやりと待っていなければならず、時間の無駄である。つまり、私のいう「ジャスト・イン・タイム」とは、間に合うというだけの意味ではない。余分なものを間に合わせても仕方がないんだ。

  • 私が憂慮しているのは、諸先輩の努力で確立した「ゆるぎなき自信と自負」が「慢心」に転化していないか、これまで当然見えていたものが、当たり前として見えなくなっていないか、また、「安易な習慣化」により努力が適切に評価されなかったり、チャレンジ精神をむしばんでいないか、ということである。

  • 木や紙でつくった燃える家ではダメだ・・・人は誰でも皆、ある一定水準以上の住宅に住むべきだ。

  • 現在私の工場でも幾らでも作りたいと思って居ますが、自動車を作る工作機械は大部分外国から輸入するものであって、自動車や飛行機等直接陸軍に必要なものに対しては、社会も政治家も保護奨励をされるけれども、自動車や飛行機を製作する根本のものは工作機械であるのに、その方面に力を入れられないという事は、日本の政治家が真に工業というものを理解されて居ないからではないでしょうか。

  • 困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。そんな俺は阿呆かも知れないが、その阿呆がいなければ、世の中には新しいものは生まれないのだ。そこに人生の面白みがあり、また俺の人生の生き甲斐が、そこにあるのだ。出来なくて倒れたら、自分の力が足りないのだから潔く腹を切るのだ。

豊田喜一郎の名言を見ている方へお薦めする名言

豊田喜一郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

豊田喜一郎について

豊田自動織機創業者・豊田佐吉の長男。1933年、豊田自動織機は当時発展が期待されていた自動車分野への参入に向けて、自動車部を設置。豊田喜一郎は自動車部新設の中心メンバーとして活躍した。1937年には自動車部が独立した新会社となる。この時豊田喜一郎は副社長に就任し、社長は義兄の豊田利三郎が務めた。4年後の1941年には利三郎は社長を退き、喜一郎が社長に就任。以後9年にわたって社長を務める。初代社長でこそないものの、自動車分野への参入は喜一郎を中心として行われたため、豊田喜一郎がトヨタ自動車の実質的な創業者とされる。

1894年(明治27年)誕生。母が実家で出産したため、出生地は現在の静岡県湖西市。愛知県で育ち、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)を卒業後、仙台の第二高等学校(現東北大学)に進み、東京帝国大学に入学。1920年(大正9年)工学部機械工学科を卒業した。卒業後に経営者として素養を得るため1年間東京帝国大学法学部で学んだのち、豊田紡織に入社し父が取り組む自動織機の開発研究を助けた。1926年(大正15年)豊田自動織機製作所が設立されると豊田喜一郎は常務取締役に就任した。急速な拡大が予想されていた自動車製造に強い関心を持ち続け、英米の自動車工場を視察した後、父の後押しもあって1933年(昭和8年)に豊田自動織機内に自動車部を新設。当初はトラック市場に参入し1936年(昭和11年)に第一号のトラックを発表した。1937年(昭和12年)自動車部がトヨタ自動車工業株式会社として独立し、豊田喜一郎は副社長に就任。1941年(昭和16年)豊田喜一郎は社長に就任。この年、第二次大戦前最高となる2066台のトラックを生産した。

第二次大戦が終戦した直後、自動車生産にはGHQの許可が必要だったが、敗戦の年に復興用トラックの生産を許可を得て生産を開始。この頃までに乗用車の試作車も完成しており1947年(昭和22年)GHQの送迎用乗用車の生産許可をGHQから得て納品。これがトヨタ自動車が販売した最初の乗用車となった。この頃、戦後の悪性インフレによる景気の悪化により、業績が低迷。同業の日産自動車は人員整理を断行したが、家族的な経営という理念を持つトヨタ自動車は人員整理を行わなかった。しかしながら、業績が上向かず賃金カットや給料の遅配が起きたことにより、大規模な労働争議が発生。1950年(昭和25年)豊田喜一郎は労働争議の責任を取る形で辞任した。1952年(昭和27年)死去。享年52歳。