奥田碩

元トヨタ自動車社長

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奥田碩の名言

奥田碩の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 最後まで諦めずに、時間をかけてもやり通す。そういう覚悟をもってすれば怖いものは何もないのです。そこから新しい境地にも立てる。他人の評価も気にならなくなるのです。

  • 人間は生まれながらにして異なる個性と才能、環境を持つわけですから、すべて平等ということはあり得ない。平等は確かに尊重すべき価値観ですが、努力の過程を無視して結果だけを一律にそろえることがいいとは思えません。

  • 上手くやろうとすればするほど、準備に時間がかかり、機会損失は拡大する。下手でもいいからやってみて、上手くいかないところは、その都度、直していく方がずっと効率的です。

  • これまでを振り返ると、つくづく自分は「運」がいいなと思います。ただ、運は何もしないでついてくるものではない。いろいろな場所に出向き、様々な人に出会い、多くの体験をするなかで巡り合うものでしょう。

  • 私は反抗心も強かったため、言いたい放題でやってきました。仕事上ではほとんどストレスを感じたことはありません。ただ、先のことや結果ばかりにとらわれず、一生懸命、徹底して物事に取り組みました。簡単にあきらめない、あの人、あの会社には負けたくない、という気持ちを持っていました。

  • 何も変えないことが、もっとも悪いことだ。

  • グローバルスタンダードなどというおかしな言葉に振り回されてすべてを他国と一緒にしてしまっては国際競争に勝てない。

  • 最近、日本人の心の中から執着心や忍耐力、こだわりが失われている。日本の製造業が名をなしてきた換骨暗黙知の世界。IT化が進めば暗黙知が形式知に置き換わっていくが、暗黙知は依然必要だ。

  • 私は日ごろから、「変わらないことは悪いことだと思え」と言い続けています。同時に、変わることをためらう人がいれば、「変革に加わらなくてもいいから、変革の邪魔はしないでくれ」と言っています。変革を実行するのは、企業なら従業員一人一人だし、国家なら国民一人一人です。

  • 果敢な行動を評価する価値観が作られれば、日本は大きく変わる。そうなれば、日本人はもっとアグレッシブになれるし停滞した闘争心に火をつけることにもなります。そもそも日本は競争をできるだけ避けてきました。運動会のかけっこでも順位はつけないなど、競争心を抑え込む教育をしてきました。安っぽい平等を追求した結果、やる気を失う子供が増えています。

  • 深く考えることも大切ですが、同時に日本人は動かなければならない。素早い行動と実践です。固定概念に凝り固まって動きが取れない人が多すぎる。じっと我慢して台風が過ぎ去るのを待っている。それでは何も変わりません。トヨタには「改善は巧遅より拙速を尊ぶ」という理念があります。改善は時間をかけて上手にやるより、ヘタクソでもいいからとにかく早くやるべきだという意味です。

  • いい意味での個性を持った人、それから気概とか、気骨のある人が21世紀の企業には必要だ。会社の中で自分の主張を信じて実現していく。それがいちばん大事な社員ということだね。

  • 人間は一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない。

  • 格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない。

  • 過去の成功体験をベースとした従来の延長線上の考え方や取り組みでは解決が難しい。それだけに、私たち自身の取り組み意識と姿勢を変え、新しい発想や方法で失敗を恐れず、勇気をもって実行することが必要だ。

  • トヨタが変われば日本が変わるという意識もあるし、渋滞するつもりもない。政治の混乱や規制緩和の進み具合がどうであれ、経営としてやるべきことはやる。

  • 時代が変われば、今までの強さが弱さになる。社内でも「トヨタが永遠に大丈夫だなんて考えるな」と言っている。企業カルチャーは絶えず変わっていくべきだ。

  • バブルの最も重大な後遺症は企業経営者の精神的な荒廃であるのかもしれない。自分の会社の利益、株主の利益しか考えず、従業員の幸せや企業の社会的責任、幅広い関係者との調和、あるいは経済や国全体の利益を考えないトップは「経営者」と呼ぶに値しない。「経営屋」にすぎない。

  • 一人ひとりが起業家、経営者の視点に立ち、「打倒トヨタ」の発想で改革に着手してほしい。最大の敵は内なる慢心。変革のチャンス、ニーズを見逃すな。

  • 戦後の日本は物質的、経済的豊かさばかりを追求して、心の豊かさを求めてこなかったけれども、ここで心の豊かさを取り戻さないと、日本の社会のバランスはおかしくなります。その意味で、生きること、死ぬことの両方を考えて、人生を見つめなおしていくことだと思います。死について考えることが、人生をよりよく生きることになると私は思っています。

  • 自分たちの今があるのは、お客様のおかげ。

  • トヨタ時代は、中堅にさしかかる頃にフィリピンでも貴重な経験をしました。トヨタにとっては初めて海外でエンジンを作るプロジェクトでした。フィリピンは当時、日本人エンジニアも2人くらいしかいない所で、左遷だとか言う人もいたみたいです。しかし、駐在員が少ない分、日本の本社から幹部が来たときには全部自分たちで応対しないといけないので、幹部たちの目に留まるチャンスが多くあります。モノは考えようです。

  • 政治とか経済の目的は国民の幸せを実現すること。政治や経済が本来の目的を忘れてしまったから、日本が間違った方向に進んでしまったんじゃないかな。

  • 日本の財界はやっぱり「日本の国民がいかに幸せに生きていけるか」ということに力を尽くさなければダメ。財界は国民が幸せになれるために存在している。

  • 20世紀はひたすら物資的な豊かさを追いかけてきた。21世紀は経済的な成長も多少は必要だが、心というか精神の豊かさを求める必要があると思う。21世紀を「心の世紀」にしなければいけない。

  • 目先の変化や表面的な動きに惑わされることなく、変化の本質を把握したうえでスピーディーに行動することが重要です。時代からの時代にかわりつつある中、「決断」「実行」をいかに俊敏にできるかが成功の鍵となります。

  • 会社も社則を10年に一度、状況に合わせて改める。そうしない会社が沈没するように、変化できない日本は沈没するしかない。

  • 日本は長くデフレが続き、成長が止まっているといわれています。社会人になる人たちはそうした時期に育ってきたわけです。しかし、海外に目を転じれば成長できる余地のある地域は数多くあります。今や世界はつながっていて、メーカーも各地で「地産地消」を推し進めています。日本に閉じこもってはいけません。どんどん海外に目を向けてもらいたいものです。

  • 社内を走り回って上にも下にも横にも、相談しないと何も決まらないのがトヨタの現状だ。

  • 「ここは日本だから」という言葉を使った時点で、もうできないということと同じ。グローバルスタンダードを目指そうとする改革を放棄したことになる。

奥田碩の名言を見ている方へお薦めする名言

奥田碩の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

奥田碩について

奥田碩(オクダ・ヒロシ)は三重県出身の経営者。トヨタ一族以外で初めてトヨタ自動車の社長となり、当時低迷していたトヨタ自動車の業績を回復させたのち、トヨタ自動車会長に就任。経団連会長も務めた。日本政府にも様々な協力しており、経済財政諮問会議委員、内閣特別顧問、日本年金機構設立委員会委員長、国際協力銀行総裁、日本郵政公社設立委員会座長、国際協力銀行総裁など要職を歴任した。

1932年12月29日、三重県津市に生まれる。7人兄弟で弟に。J.フロントリテイリングのCEOを務めた奥田務がいる。当時の奥田家は三重県最大の証券会社「奥田証券」を営んでおり、たいへん裕福な家庭だった。その後第二次世界大戦が起こり、奥田碩を含む兄弟は三重県飯南郡(現松阪市)にある祖母の家に疎開。家業の奥田証券も経営不振に陥り、戦後は祖母の家の近所で借家住まいをすることとなる。そんななか奥田碩は1955年(昭和30年)一橋大学を卒業し、トヨタ自動車販売株式会社に入社。経理部に配属される。1972年(昭和47年)の秋から6年半の間、経理部員としてフィリピンのマニラに駐在。1979年(昭和54年)にフィリピンから帰国すると豪亜部長に就任。1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、トヨタ自動車株式会社となる。これと同時に奥田碩は新生トヨタ自動車の取締役に任命された。

取締役としてアメリカ事業を指揮し、ケンタッキー工場の設立など実績をあげた奥田碩は常務、専務と昇格し、1992年(平成4年)に副社長に就任。1995年(平成7年)には豊田家出身以外で初めての社長に就任した。社長時代にはダイハツ工業の連結子会社化、世界初の量産ハイブリッドカー・プリウスの発売、役員の大幅刷新などの改革を行い、就任前は2500億円程度まで落ち込んでいた営業利益を8000億円弱にまで回復させた。1999年、張富士夫を後継者に指名して社長を退任し、会長に就任、日本経営者団体連盟の会長にも就任した。2002年、日本経営者団体連盟を経済団体連合会と合併させて日本経済団体連合会が発足。奥田碩は日本経済団体連合会初代会長に就任した。また、日本郵政公社設立委員会座長としても辣腕を振るった。2006年、トヨタ自動車会長を辞任し相談役となる。2007年福田康夫内閣で内閣特別顧問に任命される。2008年、奥田碩は日本年金機構設立委員会委員長に就任。2012年、新設された国際協力銀行の初代総裁に就任し、2013年まで務めた。