松井道夫

元松井証券社長

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松井道夫の名言

松井道夫の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 「たわ言」から、すべてが始まるんです。それをあえて唱えて、その実現に向けて悩み苦しむことが本来のビジネスなんです。

  • 誰も彼も、なぜこうも「できない理由」を一所懸命に探し、それを自分に言い聞かせているのか?それで一体どうなるというのだろうか?

  • だれが解いても同じ答えが出る、数学などとは違い、ある状況のもとで、会社や人間がとるべき行動は、ひとつではない。いくら正しい論理を繰り広げてみても、視点を変えれば別の答えが導き出せる。

  • どうすれば自分が一所懸命やらなくても達成できるか、そういった仕組みを作るのが君の仕事だ。

  • 私はこんなに努力しています。一生懸命働いています。というのは本人の勝手な思い込みです。肝心なのは働いた結果として、どれだけ商売ができたのかということです。

  • 最初からあきらめていては、何も始まらないのだ。

  • 10人中9人がうなずくことは、たいてい間違っている。

  • 自分の欲求を実現するには、しつこくやればいいんです。まさに、念ずれば通ず。こうありたい、こうなりたいと、百回、千回、万回唱えていれば、おのずとそういう行動をとるものです。「人間、できないことはない」なんて言うつもりはないですけれど、できないとあきらめた時点で、もうできません。しつこく、できるまでやる。

  • ビジネスというのは新しい需要を創ることです。いまある需要に対して何かをやるのは、たいしたビジネスではないんです。

  • これからは、主張する人でなければ「個」が埋没してしまう時代がやってきます。自分は他の人とここが違うのだということを誰もがアピールできなければならなりません。あの人じゃなければこの発想はできないなとか、この人の知識には誰もかなわないとかそういったことが、大きな価値を持つようになり、結果として他の人との差別化が図れるのです。

  • 「面白くない」と思いながら物事に当たれば、なんでもつまらないものになってしまう。「面白いはずだ」と思い込んで、ちょっとでも真剣にやってみると、面白いタネが次から次へと浮かんでくる。そして、それを続ければ続けるほど、面白くなっていくのだ。

  • 「給料をもらって働く」人と、「働いて給料をもらう」人は、まったく違う。前者は会社に従属する奴隷に過ぎないが、後者は主体性を持った「個」だ。「働いて給料をもらう」という感覚を持てば、一つ一つの判断が、いわば死ぬか生きるかの分かれ道になる。もし、ここで間違えたら収入の道が断たれる。それぐらいの覚悟で行動しない限り、主体性は持てないのだ。主体性の持てない奴隷には、私は甘んじたくない。

  • 押せばいいのか、引けばいいのか、という判断には、その時点では確信が持てない。重要な案件ほど先にならなければ、結果が見えてこないものだ。わからないからこそ、リーダーの思い込みしかないと、私は考えている。

  • 潰れずにここまで来られた理由は「引き算の決断」をしてきたからです。私は今まで加える決断をたくさんしましたが、これはことごとく失敗しました。ところが既存のものを排除する決断、引き算の決断、これが当たりました。

  • 先代は1人で経営をして、1人で決めてきた人でした。私にも「あなたの責任でおやんなさい」ですから、社長というのは自分で決断して行動するものだと思っています。多数決で決める、相談して決めるというのでは、リーダーではない。

  • できない理由を一所懸命探して、できない、できるはずがないと自分に言い聞かせる人とは、私は一緒に仕事はしたくありません。「できるはずだ」と一緒になって悩み苦しむ人と仕事がしたい。どこかに乗り越えられる解があるのです。つじつまを合わせて、他人がやっているのと同じようなことをきれいに整理してやりましたと言われても、「そんなのつまらないよ」と言うしかありません。

  • マイナスといわれているものをプラスに転じる発想をする。それくらいおめでたくないと経営者は務まらないですね。経営は絵と同じです。万人がいいと褒める絵なんて、たぶんつまらない絵です。

  • 将来どうなるかは誰にも分からないことです。ただし、産業の中で1つの機能が役目を終えると、また新しい機能が生まれるものです。時代の潮流を察知しながら、サービスを提供できる会社が伸びてくるに違いありません。

  • 規模だけが生き残りを左右するという単純な図式ではない。大手になれば、数千数万規模の従業員を抱えた大組織ですから、変化に対応することは至難の業です。

  • 私は社員に「給料をもらって働く人」は辞めてくださいと言っています。必要なのは「働いて給料をもらう人」だけです。両者には大きな違いがあります。江戸時代、魚河岸に魚を売る商人がいましたよね。彼らはいくら朝早くから魚を売り歩いて努力したとしても、結局魚が売れなければ何もしなかったことになります。商人とは本来そういうものなのです。

  • 「あきらめる」は「執念がない」と同義語だと思います。執念のある人は絶対に他人のせいにしません。全部自分のこととして考える。だから、「できないはずはない」「考えれば何かできるだろ」と前向きになれるんです。

  • 私の経営指針は「虚業であってはならない」ということです。虚業の定義は、「顧客が認めてくれないコストで成り立っているビジネス」です。その反対に、実業とは「顧客が認めてくれるコストで成り立っているビジネス」ということになります。

  • 「業界の異端児」とか「エイリアン」とか呼ばれ、業界内ではヒール役でしたが、すべては自身の時代観を信じてやっただけのこと。

  • 積極的ニートは逆に見込みのある若者たちですよ。

  • バブル崩壊の前に、経済同友会で素晴らしい経営者の方々とお話をする機会がありました。その方々が「このままだと日本経済は落ちるところまで落ちる」とおっしゃっていた。その理由が、「民間企業が官僚化していくから」だと言うんです。官僚化とは「決断しない」「無謬性がある」ということです。無謬性、つまり自分は正しいと信じている。だから責任は取らない。でもそれを民間がやったらダメだと言うんです。なんと、その後の日本はその言葉通りになってしまった。大企業の経営者といっても、社長がいて、副社長や取締役がたくさんいて、取締役会や様々な会議で多数決で物事を決めていく。誰も決断していないから、誰も責任をとらない。最近はホールディングス体制の会社も増えていて、ますます責任の所在が不明瞭になっています。昨今の日本企業の不祥事の一因も、民間の官僚化にあると思いますよ。

  • 読みが間違っているようなら、どんどん軌道修正すればよい。臨機応変が何よりも大事です。そのためには身軽な組織でないとダメで、規模は極力小さくしたほうがいいに決まっています。当社のような装置産業ではないビジネスは、会社規模と売上が比例しません。だったらコストが少ない小規模のほうが、利益は相乗的に増えます。一人当たりに換算すれば、もっとすごいことになる。

  • 経営の最大のコストは時代とのギャップ。人件費や研究開発費なんてそれに比べたら微々たるもの。時代とのギャップを拡大させるか縮小させるかは、社長の頭の中にかかっていると言っていい。時代とのギャップが大きい社長がいる会社はあっという間に廃れます。それを自覚したら退くべきです。

  • 大手と同じ土俵で勝負するつもりは全くありません。企業によって、規模や事業内容、販売チャネルが大きく異なるのですから、自社の強みを生かすことに専心すべきでしょう。

  • 組織の中で意思決定を行う際、視点を変えれば様々な「解答」が出てくる訳で、どれが正しいかを延々と議論したところで水掛け論になります。最終的にリーダーが決断して方針を決めれば済む話です。リーダーが判断を誤ることも十分あり得ますが、とにかく動かないことには何も始まりません。

  • 日本の金融・証券業界に今求められていることは、コスト構造を変えることです。長い間規制に守られてきたこの業界では、「供給者の論理」を前提としたビジネスが行われ、「虚業」が育成されてきました。私の定義では、「虚業」とは「顧客が求めていないコストで成り立っている商売」を指します。コスト構造を変えるということは、こうした虚業を廃して、「実業」、すなわち「顧客が求めているコストを前提とした商売」に変えていくということです。

松井道夫について

松井道夫(マツイ・ミチオ)は松井証券の元社長。旧姓・務台。松井証券の2代目社長の娘と結婚し、婿養子となって会社を引き継いだ。外回り営業の廃止、支店の廃止など改革を断行し、他社に先駆けていち早くオンライン証券事業に進出。松井証券をインターネット取引専業の証券会社へと変貌させた。一時は日本で最大の取引高を誇るオンライン専業証券となり、東証一部にも上場を果たした。

1953年(昭和28年)3月22日、現在の長野県松本市に生まれる。父は国税局に勤めており、生後すぐに東京都北区の官舎に転居し東京で育つ。東京都立竹早高校卒業後、一橋大学経済学部に入学。1976年(昭和51年)に大学を卒業すると日本郵船に入社し、11年間勤務。1986年(昭和61年)、松井証券の2代目社長松井武の長女・松井千鶴子と結婚し、松井家の婿養子となった。翌1987年(昭和62年)、松井道夫は日本郵船を退社して松井証券に入社。入社後すぐに証券業を学ぶために日興證券へと出向し、ロンドン支店で勤務。1988年(昭和63年)、松井証券に戻った松井道夫は取締役法人部部長に就任。1990年(平成2年)常務取締役営業本部長に就任すると、外回り営業の廃止、営業支店の閉鎖などの改革を進めて出世を重ね、1995年(平成7年)に松井証券の3代目社長に就任した。

1998年(平成10年)、松井証券は他社に先駆けて本格的にネット証券事業参入。信用取引では野村證券を抜いて業界トップになるなど躍進し、業界の話題をさらった。2001年(平成13年)、オンライン専業証券としては初めて東証一部に上場を果たす。2004年(平成16年)、ネット証券専業大手4社により設立されたネット証券評議会会長に就任。松井証券の業容拡大によって松井道夫・千鶴子夫妻は日本有数の資産家となり、2009年と2013年の雑誌フォーブスの日本人富豪ランキングで21位となった。2020年(令和2年)、「急速な変化の真っただ中にあって価値観が時代にそぐわなくなった」として松井道夫は松井証券の社長を退任。後任にUBS証券出身の和里田聰を指名した。

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