盛田昭夫

ソニー創業者

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

盛田昭夫の名言

盛田昭夫の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 人はだれでも種々様々な能力を持っているものなのに、どんな優れた能力があるかを知らずにいる場合が多い。

  • 日本といえば、低賃金というのが国際的にも通り相場だが、もはや現在の国際経済は、低賃金では競争できない段階に達しているのである。いま必要なのは、なによりも生産性の向上である。言いかえれば、仕事の量である。

  • 自分を開発し、発展していくためには、他人と同じ考え、行動をしてはならない。

  • 辞めてもらっては困る。君と僕が考え方が同じなら二人も要らない。違うから必要なんだ。

  • 黙っているほうが安全だという雰囲気は、非常に危険だ。

  • 学歴はなくてもいいけれども、学力はなければならない。

  • 知識も自信もない経営者は、冒険を嫌い、自分の行動をいちいち正当化する必要を感じ、すぐにコンサルタント会社に相談する。

  • 狭い専門分野でとことんまで努力をしたならば、そこでは誰にも負けない実力がつけられるものだと、私たちは考えている。我々の得意の分野では誰にも負けないぞという自信が持てるものなのだ。

  • 組織の秩序に組み込もうという態度はあらゆる個性的な能力を殺してしまう。

  • 問題が起きた時、部下を叱ったり、他人に責任を転嫁するのは無益。

  • とにかく思い切ってやってみよう。間違ったらまた変えればいい。

  • 技術者の得る満足と、使う立場にある人の満足は違う。

  • 個性を殺す秩序はすなわち沈滞であり、衰退であることは疑いの余地がない。

  • 日本の多くの会社が協調性をうたう時、それはすなわち個性の抹殺を意味している。

  • 過去にしがみつき通すことは不可能である。

  • ソニーはトランジスタラジオを売り出したのは世界で二番目です。一番目の米国の会社は売れなくてすぐやめた。我が社は、「ラジオは一人一台必要だ」という考え方を売ったのです。

  • 基礎科学の研究からは、未来へのヒントは得られるが、産業のエンジンとしてのテクノロジーは生まれない。そしてテクノロジーをつくり出すのは、科学者ではなくエンジニアだ。ただし、テクノロジーだけではイノベーションにならない。

  • いくら性能が優れた製品であっても、お客様に買ってもらえなくては会社に何の価値ももたらさない。

  • 日本人の中には、意見に食い違いが生じると、友情もそこまでと考える人が多い。しかし、欧米人は、相手を友達と思えばこそ、とことん議論し、徹底的に思うところを説明しようとする

  • アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。

  • ソニーの「自由闊達」は、責任を持って仕事を成し遂げようと努力する中で初めて成り立つ。

  • ソニーのカルチャーは日本のカルチャーであってはいけないと思っております。

  • 値段は高くてもよろしい。高いだけ良いものであればそれでよい。

  • 産業人が汗水垂らして働いた結晶が、彼らの為替投機のせいであっというまに吹っ飛んでしまう。そんなばかな話がありますか。

  • 金銭が唯一のインセンティブだと考えるのは、大きな間違いである。

  • 50年前には、あなたの会社のブランドも、いまのソニーと同様、誰ひとり知らなかったに違いない。我々は将来のために、いまや50年の第一歩を踏み出すのだ。50年後にはソニーもあなたの会社同様、必ず有名にしてみせる。

  • 米国企業は、長続きする財産を築くことよりも、紙の財産をもてあそぶことに興味を覚え、四半期ごとの短期勝負に血道をあげている。

  • 自己の納得なく、ただ命令だからやる仕事に皆さんは生き甲斐を見いだすことができるだろうか。

  • 私は、あなた方が本当に働きがいを感じ、働く喜びを持ってソニーにいて欲しいと思います。

  • ソニーを、海外現地の人々が誇りに思う会社にしていただきたい。それが「グローバル・ローカライゼーション」の意味するところです。

盛田昭夫について

盛田昭夫は海軍の技術部隊員となったのち、第二次大戦後に井深大らとともに東京通信工業株式会社(現・ソニー)を創業した起業家。営業担当の役員となり、自らアメリカに駐在し市場開拓を行ったり、世界各国に販売会社を設立するなど、ソニーブランドを世界的に浸透させた。1971年から1976年まで社長。

盛田昭夫は1921年愛知県名古屋市で生まれた。大阪帝国大学理学部物理学科を卒業し、日本海軍に入隊。太平洋戦争中、海軍技術中尉として従軍していたときに井深大と知り合う。戦後の1946年に井深大らとともに東京通信工業株式会社(のちのソニー)を創業。同社の社長は元政治家で公職追放となっていた前田多門、技術担当の専務を井深大が務め、盛田昭夫は営業担当の常務に就任した。

営業担当となった盛田昭夫は、1955年東京通信工業が発売したトランジスタラジオに「ソニー」のブランドを使用。1958年にはブランド名として使用していたソニーが会社名に採用された。盛田昭夫はこの頃、自らアメリカに駐在し、同国でのソニーブランドの確立に尽力。さらに、世界各国にソニー製品を扱う販売会社を設立し、世界中でソニー製品を販売できる体制を構築し、世界的企業ソニーの礎を築いた。

1959年に副会長、1960年には新設されたソニー・コーポレーション・オブ・アメリカの取締役社長。盛田昭夫は1971年から1976年までソニー社長、退任後はソニーの会長を歴任。1986年には経団連副会長を務めた。1999年死去。享年78歳。

盛田昭夫の名言を見ている方へお薦めする名言

盛田昭夫の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。