本田宗一郎

本田技研工業創業者

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本田宗一郎の名言

本田宗一郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。

  • たんなる一生懸命はなんら価値がない。一生懸命が価値を持つためには、正しい理論に基づくことが前提条件だ。

  • 人間というものは、面白いものであり、不思議なものであり、必要のない人間というのはいないのである。

  • 「成功は失敗のもと」という例えがあるが、本当に失敗を成功のもとにする人は何人あるか。これは正しい理論を用いて反省する人のみに与えられたる権利だと思う。

  • 嫌いなことをムリしてやったって仕方がないだろう。私は不得手なことは一切やらず、得意なことだけをやるようにしている。金をかせぐよりも時間をかせげ。

  • 私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続であった。その実を結んだ1%の成功が現在の私である。

  • 新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる。

    解説:  本田技研工業のCMでも使用された本田宗一郎の名言。

  • 会社の為に働くな。自分が犠牲になるつもりで勤めたり、物を作ったりする人間がいるはずない。だから、会社の為などと言わず、自分の為に働け。

  • 人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである。長い目で見れば人生にはムダがない。

  • 日本人は、失敗ということを、恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。

    出典:  本田宗一郎「本田宗一郎からの手紙」

  • 失敗を恐れてはいけない。恐れなくてはいけないのは、失敗を恐れて何もしなくなることだ。

  • 人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。

  • 人真似をするな。楽をしたければ人真似をするのも自由だが、そうなると企業は転落と崩壊の道をたどり始める。

  • 常に正しくあることこそ、自分をいちばん強くすることである。

  • 信用とは人に好かれること、約束を守ること、人を儲けさせること。

  • 真のエキスパートは、不可能の壁を打ち破ることに無常の喜びをもつものだ。

  • 知識は死んでいる過去のものだ。知恵は生きている。今のものであり将来のものだ。

  • 成功者は、例え不運な事態に見舞われても、この試練を乗り越えたら、必ず成功すると考えている。そして、最後まで諦めなかった人間が、成功しているのである。

  • 需要があるからつくるのではない。我々が需要を創り出すのだ。

  • 未来を打ち立てるために過去は必要であるが、しかし歴史は二度と使うものでない。二度と使ったものは発明でも創意工夫でも進歩でもない。

  • 発明はすべて苦しまぎれの知恵だ。アイデアは、苦しんでいる人のみに与えられている特典である。

  • 社長なんて偉くもなんともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。

  • 人間、欠陥を持っていることはすばらしい。自分でなんでもやっちゃ、部下もついてこない。

  • 成功したその日から、次の目標に向かって前進していかなければならない。なぜなら、勝者は常に勝者でありつづけることはできないし、それ以上に気をつけるべきは、勝者の驕りだからである。組織が大きくなり、資本力が増大してくると、身動きができなくなり、自分を見失ってしまう。

  • 人間は納得しなければ動かない。納得させるには哲学が必要だ。

  • ワイワイガヤガヤと議論することで、相互信頼と共通認識を持つことができる。

  • 失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。

  • 苦しい時もある。夜眠れぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、俺はダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。

  • 人間に必要なのは困ることだ。絶体絶命に追い込まれたときに出る力が本当の力です。伸びる時には必ず抵抗がある。必死のときに発揮される力というものは人間の可能性を予想外に拡大するものである。

  • 私は、他人の真似をするのが大嫌いである。私は真似が嫌いだから、うちはうちの作り方でやろうということで苦労をしたわけである。しかし、かれらに追いつくまでに時間をかけて努力したことが、追いついてからのちの技術力の差になった。

本田宗一郎について

本田宗一郎は本田技研工業の創業者で昭和の日本の経済成長を象徴する起業家。バイクの製造から会社を興し、世界的な自動車メーカーへと成長させた。

1906年(明治39年)静岡県磐田郡光明村に生まれる。父は自転車販売店を経営していた。15歳で自動車、オートバイの修理会社であるアート商会に丁稚奉公する。6年間働いた後、アート商会から暖簾分けを許され、アート商会浜松支店を開業。この頃から本田宗一郎はエンジンの機関部品であるピストンリングの製造をしたいという希望を持ち、そのために知人の力を借りて東海精機重工業を設立する。

アート商会で働きながらピストンリングの研究に打ち込み、浜松高等工業(今の静岡大学工学部)の聴講生としても学んだ。その後ピストンリングの開発に成功した本田宗一郎はアート商会浜松支店を弟子に譲り渡し、東海精機重工業の社長に就任する。

しかしながら、1945年(昭和25年)に発生した三河地震で東海精機重工業の浜松工場が倒壊。本田宗一郎は東海精機重工業を退社し、保有していた東海精機重工業株も全て売却した。3年後の1946年(昭和21年)浜松市に本田技研工業を設立し、バイクの製造に乗り出す。1955年(昭和30年)二輪車生産台数日本一を達成。その後は4輪車の製造に参入し、1963年(昭和38年)同社初の四輪車となる軽トラックT360/T500を発売。1972年(昭和47年)ホンダの代表車となる「シビック」を発売、低公害エンジン「CVCC」を開発し当時世界一厳しいと言われたアメリカのマスキー法75年度規制を世界で初めて達成。1973年(昭和48年)に本田宗一郎は社長を退任し同社の終身最高顧問に就任した。1991年(平成3年)死去。享年84歳。

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