渋沢栄一
実業家、官僚
渋沢栄一の名言
渋沢栄一の過去の名言をまとめた名言集です。
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悪いことの習慣を多く持つ者は悪人となり、良いことの習慣を多くつけている者は善人となる。
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言葉は真心を込め、行いは慎み深く、事を取りさばき、人に接するには必ず誠意を持って臨め。
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四十、五十はハナタレ小僧、 六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ。
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数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。
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一家一人の為に発する怒りは小なる怒りにて、一国の為に発する怒りは 大いなる怒りである。大いなる怒りは、国家社会の進歩発展を促す。
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礼儀ほど美しいものはない。
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できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である。
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金はボロに包んでも金だが、石は錦に包んでも石。
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一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。
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明治維新当時の財界における三傑は三井の野村利左衛門と天下の糸平こと田中平八を挙げなければならない。
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立志の当初最も慎重に意を用うる必要がある、その工夫としてはまず自己の頭脳を冷静にし、しかる後自分の長所とするところ、短所とするところを 精細に比較考察し、その最も長ずる所に向かって志を定めるがよい、またそれと同時に、自分の境遇がその志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要である。
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我が人生は、実業に在り。
渋沢栄一の名言を見ている方へお薦めする名言
渋沢栄一の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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ハッキングの多くは皆で共に楽しむために行われている。おかしなことをするために集まるんだ。
スティーヴ・ウォズニアック Apple創業者
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無駄になる努力はない
川上哲治 プロ野球選手、監督
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世の中の先行ニーズというのは毎日の中にある。砂っ原で砂金を拾いあげていくようなことが、マーケティングである。
鈴木敏文 セブン&アイ・ホールディングスCEO
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みじめに見られない唯一の方法は、ワクワクするような楽しみを持つことだ。
バーナード・ショー 劇作家
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決断が遅い人は、頭の回転が遅いわけではないと思います。おそらく、「ちらつく」ことに弱いのではないでしょうか。決断を誤り、上司や取引先から責め立てられる自分の姿、自分の決断で不利益を被った人が怒る顔……。そんなイメージがちらつくと、頭から離れなくなり、決断ができなくなる、ということです。もちろん、鈍感すぎてもいけませんが、とらわれすぎていては、いつまで経っても判断できません。
冨山和彦 経営コンサルタント、経営者。株式会社経営共創基盤 代表取締役
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私の生きがいは、私たち人間が美しいものに囲まれていることです。
オノ・ヨーコ 前衛芸術家、平和活動家
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なんとか達成できる目標を設定する。達成感と挑戦がちょうどバランスが取れているような職場環境を作り上げること。仕事に興奮を覚えるには、成功の喜びを感じる必要があるのだ。
ジャック・ウェルチ ゼネラル・エレクトリックCEO
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仕事が伸びるか伸びないかは、世の中が決めてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。
松下幸之助 パナソニック創業者
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ビス一本のゆるみが、ソニーの信用を傷つける。
盛田昭夫 ソニー創業者
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クラシックの騎乗馬に関しては、その後も直前まで決めないのがベストというスタンスで考えています。例えば夏の新馬戦でいい勝ち方をすると、若いジョッキーなどはすぐに「来年はこの馬で」とか言うじゃないですか。ボクは欲張りだから、もっといいのが出るんじゃないかと心の中で思っています
武豊 騎手
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やろうと思った事は、その日から始めるのがよい。年齢など気にすることはないのだ。思い立ったが吉日である。
吉田松蔭 教育者、思想家
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いろんな街の路地裏には、さまざまな人生の味気がしめこんでいる。
手塚治虫 漫画家
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僕の活躍を楽しみにしてくれる人がいる。それがどれほど力になるか。
松井秀喜 元プロ野球選手
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もし、死ぬときに「俺は大事な人生を、あんなところでムダに過ごしてしまったな」と思ったとしたら、これほど不幸なことはない。やはり、「俺はソニーで働けて幸せだった」と思って死ぬようにしてあげることが、社員に対する最大の務めだと思う。
盛田昭夫 ソニー創業者
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若い人に伝えておきたいのは、できるだけ早く、「一生かかって何をしたいのか」という目標を明確にして仕事をすべきだということです。
柳井正 ユニクロ創業者
渋沢栄一について
渋沢栄一は明治から昭和初期の日本の経済の基礎が作られた時期に活躍した実業家。第一国立銀行(現・みずほ銀行)、東京海上火災保険、理化学研究所、東京証券取引所など500以上の会社・機関の設立に関わり、「日本資本主義の父」とも呼ばれる。
1909年(天保11年)、埼玉県の裕福な豪農の次男として生まれる。幕末には徳川慶喜に仕える幕臣となる。大政奉還後は当初静岡に商会(会社)を設立したものの、大隈重信からの誘いを受け、渋沢栄一は新政府で大蔵省の役人となった。大蔵省では国立銀行条例などに携わるが、大隈重信や大久保利通と対立して1873年(明治6年)に退官。
退官後は大蔵省時代に設立に関わった第一国立銀行の頭取となる。それを皮切りに500以上と言われる銀行や企業、機関の設立に関わっていく。東京瓦斯や東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、京阪電気鉄道、東洋紡績、明治製糖、東京証券取引所、理化学研究所の設立には渋沢栄一が関わったといわれる。渋沢栄一は設立した会社の株式の多数を保有し続けることを目指さず、他の起業家のように財閥を形成することはなかった。また、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交にも尽力した。1931年(昭和6年)死去。享年91歳。