岩崎弥太郎

三菱財閥創始者

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岩崎弥太郎の名言

岩崎弥太郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。

  • 酒は大いに飲むべし、酔うべからず。飲んで乱れる弱卒は用いるに足らず。

  • 字など下手でもよいのだ。諸芸に秀でようとして、枝葉末節の技術に時間をかけるのは、無能者がやること。

  • 自信は成功の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。

  • 川や海に魚が群れをなしてくることがあるが、機会が訪れるのもそれと同じだ。それっ、魚が集まった、といって網をつくろうとするのでは、間に合わぬ。いつ魚がきても、すぐに捕えられるように、不断に準備をしていて、その場になってまごつかぬようにしておかなければならぬ。

  • 客に頭を下げると思うな。この扇子に叩頭するつもりでやれ

  • 機会は魚群と同じだ。はまったからといって網を作ろうとするのでは間に合わぬ。

  • 会社の利益はまったく社長の一身に帰し、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし。

  • 国家的観念をもって、すべての事業に当たれ。誠をもって公に尽くさんとする真心は、瞬時も忘れてはならない。

  • 小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。

  • 無駄をなくすということは、口に出して言うのは簡単でも、実行するのは難しい。これは昔も今も、人々のひとしく悩みとするところである。余分な人員を整理し、無駄な費用を省き、精魂を尽くして本社の基礎を固め、相手に負けないだけの体制を築いてこそ、はじめてこちらの勝利が期待できる。

  • 事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。

  • 小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。

  • 水急なれば魚住まず。政治苛なれば人就かず

  • 酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。

  • 樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。

  • 今、遺言したいことは、使っている社員は三菱の有らん限り一人も暇を出してはならぬということだ。また老いて役に立たぬようになっても、必ず食うに困らぬだけの事はしてやらねばならぬ。そうでないと、三菱の事業は末永く繁昌せぬと知るべきである。

  • 国家的観念をもってすべての経営事業にあたるべし。

  • 小事に齷齪するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし。

  • 部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。

  • よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし。

  • 断じて投機的な事業を企つるなかれ。

  • 勤倹身を持し、慈善人にまつべし。

  • 創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ。

  • 機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。それをとらえそこねると、その人は一生立身できない。

  • 創業は大胆に、守成は小心たれ。樽よりくむ水にまして、洩る水に留意すべし。

  • 一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。

  • 平々凡々と人の下にいるのは、死ぬこととさえ同じ。これは私の性格である。

  • 一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。

  • 奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。

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岩崎弥太郎について

岩崎弥太郎は幕末から明治にかけて活躍した武士、実業家。土佐藩の地下浪人の家に生まれ、土佐藩の商務組織である開成館長長崎商会で、武器商人のグラバーやウォルシュ兄弟との取引を行い事業家としての腕を磨く。坂本龍馬が中心となって結成した海援隊では経理を担当し、坂本龍馬亡き後は九十九商会を結成して海援隊の事業を継承。明治に入ると海運事業を皮切りに会社を急拡大させ、三菱財閥を作り上げた。政治家との結びつきを利用して巨利を得る「政商」として有名。

1835年(天保5年)土佐国安芸郡(現・高知県安芸市)に生まれる。岩崎家は元々武士と農民の間に身分である郷土だったが、天明の大飢饉で困窮するなどして曾祖父の時代に地下浪人となっていた。1858年(安政5年)吉田東洋の少林塾に入塾し、後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟らと共に学ぶ。その後吉田東洋が土佐藩の要職である参与に就任し、岩崎弥太郎を藩の役人に登用する。しかし藩から長崎への派遣を命じられた際、資金を使い込んで勝手に帰国。岩崎弥太郎は罷免された。1867年少林塾で共に学んだ福岡藤次や後藤象二郎で土佐藩の船舶や武器の購入や、藩の特産物の取引を任される。

1869年藩命で海運商社土佐開成社を立ち上げる。当時は幕府の命令で藩が運営する事業が禁止されていたため、土佐開成社は民間事業とされた。その後土佐開成社は九十九商会、三川商会、三菱商会へと名前を変えていきながら事業を拡大。明治に入ると、新政府による藩札の買い上げや、西南戦争の際の政府軍の輸送、官営の工場や鉱山の払い下げなど、政府と関係する事業で岩崎弥太郎は巨万の富を築いた。これらの事業は、岩崎弥太郎が後藤象二郎ら政府の要人とコネクションを持ち、政府の情報を得たり、三菱商会に有利な決定をさせたりしたことによるものであった。このため岩崎弥太郎は「政商」と呼ばれ、あまりにも巨利を得ているとして批判する者も多かった。1885年(明治18年)死去。享年50歳。