岩崎弥太郎

三菱財閥創始者

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岩崎弥太郎の名言

岩崎弥太郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 我は東洋の男児、胸中に蓄える計画を試みること十ニ、三に過ぎず、ここに至る。命なるかな。

  • 番頭や小僧に頭を下げると思うから悔しくなる。今後はこの扇子を開き、小判に頭を下げると思ってやるがいい。

    出典:  「岩崎弥太郎と三菱四代」

  • 人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ。

  • 魚は招いてくるものでなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。

  • 貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が皆白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか。使い古しの古紙を用いた場合と幾ら違うか、計算してみよ。

岩崎弥太郎の名言を見ている方へお薦めする名言

岩崎弥太郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

岩崎弥太郎について

岩崎弥太郎は幕末から明治にかけて活躍した武士、実業家。土佐藩の地下浪人の家に生まれ、土佐藩の商務組織である開成館長長崎商会で、武器商人のグラバーやウォルシュ兄弟との取引を行い事業家としての腕を磨く。坂本龍馬が中心となって結成した海援隊では経理を担当し、坂本龍馬亡き後は九十九商会を結成して海援隊の事業を継承。明治に入ると海運事業を皮切りに会社を急拡大させ、三菱財閥を作り上げた。政治家との結びつきを利用して巨利を得る「政商」として有名。

1835年(天保5年)土佐国安芸郡(現・高知県安芸市)に生まれる。岩崎家は元々武士と農民の間に身分である郷土だったが、天明の大飢饉で困窮するなどして曾祖父の時代に地下浪人となっていた。1858年(安政5年)吉田東洋の少林塾に入塾し、後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟らと共に学ぶ。その後吉田東洋が土佐藩の要職である参与に就任し、岩崎弥太郎を藩の役人に登用する。しかし藩から長崎への派遣を命じられた際、資金を使い込んで勝手に帰国。岩崎弥太郎は罷免された。1867年少林塾で共に学んだ福岡藤次や後藤象二郎で土佐藩の船舶や武器の購入や、藩の特産物の取引を任される。

1869年藩命で海運商社土佐開成社を立ち上げる。当時は幕府の命令で藩が運営する事業が禁止されていたため、土佐開成社は民間事業とされた。その後土佐開成社は九十九商会、三川商会、三菱商会へと名前を変えていきながら事業を拡大。明治に入ると、新政府による藩札の買い上げや、西南戦争の際の政府軍の輸送、官営の工場や鉱山の払い下げなど、政府と関係する事業で岩崎弥太郎は巨万の富を築いた。これらの事業は、岩崎弥太郎が後藤象二郎ら政府の要人とコネクションを持ち、政府の情報を得たり、三菱商会に有利な決定をさせたりしたことによるものであった。このため岩崎弥太郎は「政商」と呼ばれ、あまりにも巨利を得ているとして批判する者も多かった。1885年(明治18年)死去。享年50歳。