岩崎弥太郎
三菱財閥創始者
岩崎弥太郎の名言
岩崎弥太郎の過去の名言をまとめた名言集です。
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我は東洋の男児、胸中に蓄える計画を試みること十ニ、三に過ぎず、ここに至る。命なるかな。
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番頭や小僧に頭を下げると思うから悔しくなる。今後はこの扇子を開き、小判に頭を下げると思ってやるがいい。
出典: 「岩崎弥太郎と三菱四代」
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人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ。
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魚は招いてくるものでなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。
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貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が皆白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか。使い古しの古紙を用いた場合と幾ら違うか、計算してみよ。
岩崎弥太郎の名言を見ている方へお薦めする名言
岩崎弥太郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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良薬は口に苦くして病に利あり。忠言は耳に逆らいて行いに利あり。
孔子 思想家、儒教の祖
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長い助走は真似のしにくいオリジナリティーの創造につながる。オリジナリティーを生み出すには、「目に見えにくい要素」が必要です。例えば、協力していただく方との出会いや、相手をよく知り、自分たちを知ってもらう時間。一緒にお仕事をしていく中で交わした言葉や、考えの変遷など。このような属人的な要素が数多くあった方が真似がしにくいストーリーが生まれ、結果、強固なブランド力につながります。
糸井重里 コピーライター、株式会社ほぼ日創業者
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トップがわからなかったらケンカしてでもいいところをわかってもらえるよう、とことんやっていかないと本物にはならないね。
井深大 ソニー創業者
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会社が大きくなっていく過程では、自分自身が置かれている立場も変わりますし、組織の作り方も違います。何回も変化しますから、常に会社の変化のスピードよりも自分が一歩先を考えて成長していかないとダメだな、というのが実感です。
平野岳史 フルキャスト創業者
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全部どこかで一度捨てないと。次の役には向かっていけない。キャリアを捨てないと、また1から始められない。このキャリアをまた持ってここに行ったって何の役にも立たない。
渡辺謙 俳優
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演出は自分が好きでやっている仕事だから「みんなをまとめなきゃいけない」と思ってやったりはしません。何事においても「この職業だから、こうしなきゃ」って発想は、もうやめたのです。
宮本亜門 演出家
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海外の施主から直接依頼を受けることもたくさんあります。「あいつにしかできない」。そう相手に思わせることができているのがポイントなんでしょうね。アルマーニのスーツを購入する人だって、「このシルエットはやはりアルマーニならでは」と思うから買い求めるわけでしょう。
安藤忠雄 建築家
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自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何もできないんじゃないか、なんて考えるのは誤魔化しだ。そういって自分がやらない口実にしているだけだ。才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。
岡本太郎 前衛芸術家、画家、彫刻家
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エンジニアであるのなら、積極的に勉強するとか、新しい技術に興味を持つとかいうのは自然とできることだと思いますけどね。そうでない人というのは仕事として渋々やっているわけで、できれば勉強もプログラミングもしたくないのでしょう。お金さえもらえれば、エンジニア以外の仕事であっても特に変わらないわけで。でも本当はプログラミングってすごく面白いんですよ。何が面白いかって、例えば使っているソフトに気に入らないことがあったら、すぐにカスタマイズして自分の思い通りにすることができる。
まつもとゆきひろ ソフトウェアエンジニア
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何かやってるのは、うまくいくのかないかないのかなと思いながら曖昧な気持ちでやってるのね。でもうまくいかなかったことでも大声で発表する。そうすると楽しいことになっちゃう。うまくいかなかったことを見なかったことになんとかしようとすると、つまんない方向にしかいかない。
所ジョージ タレント、歌手
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困難や危機に際して小手先の対策をとったり、右往左往したりしてはいけません。後退して原点に戻ることが非常に大事です。
千本倖生 DDI(現KDDI)共同創業者、イー・アクセス、イー・モバイル創業者
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事業を行う人は、志を持たなくてはいけません。志というのは、あくまでも世のため人のためという利他的なものです。野心は私利私欲のためなんです。だから私自身、事業を行うスタートラインは志を持つ、即ち世のため人のためになることをやろうと思い定めました。
北尾吉孝 SBIホールディングス創業者
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仮にどんなに小さく思える会社でも、総力をあげて一つのことに集中している会社には大変な強みがあり、計り知れないエネルギーを秘めています。
出井伸之 元ソニーCEO、クオンタムリープ創業者
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自分の力を今日ここで使い切るぞという勢いでやってますからね。でも不思議なことに、ゆとりを残して力を出し惜しむより、使い切ったほうがまた元気に走れる。
鈴木おさむ 放送作家
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任天堂がそれをつくるうえでの哲学がどうなのか、ということのほうが重要ですから。
岩田聡 元任天堂社長
岩崎弥太郎について
岩崎弥太郎は幕末から明治にかけて活躍した武士、実業家。土佐藩の地下浪人の家に生まれ、土佐藩の商務組織である開成館長長崎商会で、武器商人のグラバーやウォルシュ兄弟との取引を行い事業家としての腕を磨く。坂本龍馬が中心となって結成した海援隊では経理を担当し、坂本龍馬亡き後は九十九商会を結成して海援隊の事業を継承。明治に入ると海運事業を皮切りに会社を急拡大させ、三菱財閥を作り上げた。政治家との結びつきを利用して巨利を得る「政商」として有名。
1835年(天保5年)土佐国安芸郡(現・高知県安芸市)に生まれる。岩崎家は元々武士と農民の間に身分である郷土だったが、天明の大飢饉で困窮するなどして曾祖父の時代に地下浪人となっていた。1858年(安政5年)吉田東洋の少林塾に入塾し、後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟らと共に学ぶ。その後吉田東洋が土佐藩の要職である参与に就任し、岩崎弥太郎を藩の役人に登用する。しかし藩から長崎への派遣を命じられた際、資金を使い込んで勝手に帰国。岩崎弥太郎は罷免された。1867年少林塾で共に学んだ福岡藤次や後藤象二郎で土佐藩の船舶や武器の購入や、藩の特産物の取引を任される。
1869年藩命で海運商社土佐開成社を立ち上げる。当時は幕府の命令で藩が運営する事業が禁止されていたため、土佐開成社は民間事業とされた。その後土佐開成社は九十九商会、三川商会、三菱商会へと名前を変えていきながら事業を拡大。明治に入ると、新政府による藩札の買い上げや、西南戦争の際の政府軍の輸送、官営の工場や鉱山の払い下げなど、政府と関係する事業で岩崎弥太郎は巨万の富を築いた。これらの事業は、岩崎弥太郎が後藤象二郎ら政府の要人とコネクションを持ち、政府の情報を得たり、三菱商会に有利な決定をさせたりしたことによるものであった。このため岩崎弥太郎は「政商」と呼ばれ、あまりにも巨利を得ているとして批判する者も多かった。1885年(明治18年)死去。享年50歳。