内村鑑三

キリスト教指導者、思想家

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内村鑑三の名言

内村鑑三の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。

  • 一日一生。一日は貴い一生である。これを空費してはならない。

    出典:  内村鑑三「一日一生」

  • 駄目だ、駄目だ、駄目だ、と云う奴が駄目だ、宗教家だとか、精神家だとか称へて事を為すときには、世の俗人と同じく方法と策略のみ講じて、信仰と精神とを顧みざるものは皆駄目なんだ、こんな者に改革も何も出来るものか。

  • 人生の成功とは、自分の天職を知って、これを実行する事である。

  • 貧者の一つの幸福は世が彼の交際を要求しない事である。

  • 一個の我は他の我と常に戦いつつあるものなり。誠に実に、此の一生は戦争の一世なり。

  • 真の愛は悪に対する憎悪を十分にふくむものである。仮面的の愛または浅き愛は、悪を憎むことを知らない。けれども深き真なる愛は、かくあることはできないのである。

  • 貧は自由の伴侶である。束縛は富に伴うものである。富は人の作ったものである。ゆえに富んで人世の束縛より離れることははなはだ難しくある。貧者のひとつの幸福は、世が彼の交際を要求しないことである。

  • 一国民は言ふまでもなく、ひとりの人間といへども、一日にて回心せしめらるべきものと信ずるなかれ。真の意味における回心は数世紀の事業である。

  • 恐るべき者は新聞記者にあらず。彼らは時勢の従属なり。その指導者にあらず。彼らは時勢の要求に反して何事をも語り得る者にあらず。

  • 後世へ遺すべき物は、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。

  • 人もし全世界を得るとも、その霊魂を失わば何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るにあらず。品性を完成するにあり。

  • 喜びの声を発すれば喜びの人となり、悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。

  • 富も財産なり。知識も財産なり。健康も財産なり。才能も財産なり。意志もまた財産たるなり。しかして意志のほかの財産に勝るゆえんは、何人もこれを有すると、これをおのれが欲するままに使用しうることにある。

  • 病むものは汝一人ならざるを知れ

  • 眼を自国の外に注がざるものにして、よく宇宙を包括する観念の起こるべき理なし。

  • 婦人を遇するの道は、その高貴なる品性をはげますにあり、その賎劣なる虚栄心に訴ふるにあらず。

  • 誠実から得た信用は最大の財産となる。

  • もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。

  • 家庭は日本人最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の所である。

  • 人の生涯は、罪を犯しつつ死を前に望む恐怖の生涯である。罪の苦悶と死の恐怖と、この二つは、人が墓までたずさへゆくべき道づれである。

  • 人の天職を発見するは最も困難である。例えまた、これを発見したりとするも、これを実行するはこれまた、困難である。

  • 独立とは、自分自身の能力を自覚して、それを現実化することである。

  • 慾のための愛は、愛にあらず、愛は己の利を求めず。

  • 学は貴し。されども精神の貴きに如かず。

  • 最悪の平和も最善の戦争にまさる。

  • 人は希望的動物なり。彼にありては前を望むは自然にして、後ろを顧みるは不自然なり。希望は健全にして、回顧は不健全なり。

  • 正義は事業より大なるものなり。否な、正義は大事業にして、正義を守るに勝る大事業のあるなし。

  • 我々は後世に遺すものは何もなくとも、我々に後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、あの人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。

  • 本業に集中しなさい。そうしればおのずと事業は発展していきます。

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内村鑑三について

内村鑑三は明治・大正・昭和初期にかけて活躍した、日本のキリスト教の代表的指導者。「無教会主義」を唱え、教会という施設よりもキリストの十字架を重んじ、キリスト教を信仰するにあたって必ずしも教会に所属する必要はないとの立場を取った。

1861年(万延2年)江戸に生まれた。父は高崎藩士。東京外国語学校に入学し、ここで初めて聖書と出会う。卒業後内村鑑三は新設2年目の札幌農学校(現・北海道大学)に入学。ここで外国人教員たちからの強い影響を受け、キリスト教に改宗した。当時の札幌農学校はお雇い外国人に感化されて多くの学生がキリスト教を信仰していたという。卒業後は北海道開拓使に勤めながらキリスト教の布教に勤しみ、札幌独立キリスト教会を設立。札幌YMCAの副会長にもなった。さらにキリスト教を学ぶためアメリカに留学し、内村鑑三はハートフォード神学校に入学するも退学。学校教員になるが、1891年(明治24年)教育勅語奉読式で最敬礼しなかったとして非難され退職した(内村鑑三不敬事件)。

内村鑑三は著作活動に力を入れ、「督信徒の慰め」、「求安録」、「余は如何にして基督信徒となりし乎」などを著す。著作の中で内村は「無教会主義」を提唱。月刊のキリスト教誌「無教会」も発刊した。 昭和5年(1930年)死去。享年69歳。