マルティン・ルター

神学者・牧師

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マルティン・ルターの名言

マルティン・ルターの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 我々はまだあるべき我々ではない、しかしそれに向けて成長しており、その過程が終わっていないだけなのだ。

    出典:  「Works of Martin Luther」

  • 死によって人生が終わってしまうのではない。死によってその人の生涯が完成するのである。

  • 全てが上手くいく時というのは、最も危険な試練なのだ。その時人は神を忘れ、あまりにも大胆になり、成功を間違った方向に利用する。

    出典:  「A Treatise on Good Works」

  • 完全に状況に恵まれるまで待つ者は、何も成し遂げることはない。

  • 私は毎週信者たちに神の正義を解く。なぜなら、彼らは毎週忘れるからだ。

  • たとえ明日世界がバラバラになるのであっても、私はリンゴの木を植えよう。

  • キリスト教徒に完成された形というものはない、いつも変化していく過程にあるのだ。

  • 神はあなた自身の善行を求めているわけではない、あなたの隣人たちの善行を求めているのだ。

  • ビールを飲む者は、すぐに寝てしまう。眠っている者は罪を犯さない、そして天国へ行けるのだ。だから我々にビールを。

  • 誰が正しいと言おうとも、自分の良心に反するのならば、それは正しくない。

  • 良い結婚よりも、美しく、友情があり、魅力的な関係や団体、集まりはない。

  • 隣人に対してキリストのようであることは、キリスト教徒の義務です。

  • 1つの嘘を本当らしくするためには、7つの嘘が必要になる。

  • 悲しむ理由よりもっと多く、喜ぶ理由が私たちはある。

  • やがて成長して作物が得られるという希望がなければ農夫は畑に種を蒔くことはないだろう。子供が生まれるという希望がなければ人類に結婚という仕組みは出来なかったであろう。利益を得ることができるという希望がなければ、商人は商売を始めないだろう。この世を動かしているのは、すべて希望なのだ。

  • どんなに知恵があっても、これを使う勇気がなければ何の役にも立たないように、いくら信仰が厚かったとしても、希望がなければ何の価値もない。希望はいつまでも人とともにあって、悪と不幸を克服する。

  • キリスト教徒とは信仰と愛からなる。信仰は人を神に近づけ、愛は人々を結びつける。

  • あなたの良い行いを必要としているのは神ではありません。隣人です。

  • 我々は生の真っ只中にあって、死に取り囲まれている。

  • 酒は強く、王はもっと強く、女はそれよりさらに強く、けれども、真理は最も強い。

  • あなたが「ちょっとした罪」を犯したと思うなら、「ちょっとした救済者」としてキリストに頼りなさい。

  • 祈りを捧げる者がどれほど強く、祈りにどれほどの効果があるか、経験した者以外にはわからない。真摯に祈れば、祈った以上のものを耳にし、手にするであろう。神は時に先延ばしにするが、必ず報いるのだ。

  • 死は人生の終末ではない。生涯の完成である。

  • 偉大な人物に成長する者は皆、謙虚になっていきます。奢り高ぶった傲慢な者が神に愛されるわけがないのです。

  • 世界を変えたいのならばあなたの想いを文章にしなさい。

  • 自説を取り消すことなどあり得ないことだ。

  • 平安はいかなる権利にもまして貴重なものである。平安が権利のためにではなく、権利が平安のために作られているのだ。したがって、どちらかが道を譲らねばならないとしたら、権利が平安に譲らねばならないのであって、平安が権利に、ではない。

  • 心から信ずることによって、人間は正しく、また義とせられる。

  • 「今でなくても」が、「ついにとうとう」になることは実に早い。

  • 希望は、強い勇気であり、新たな意志である。

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マルティン・ルターについて

マルティン・ルターはキリスト教の宗教改革の先頭に立ち、新教派「プロテスタント」を創始した。16世紀初頭、ローマ教会はサン=ピエトロ大聖堂修復のために贖宥状を販売し、贖宥状を買った者の天国行きは教会によって保証されるなどと喧伝していた。それに疑問を持ったマルティン・ルターは「九十五ヶ条の論題」といわれる公開質問状を提示。これが大論争を巻き起こし、プロテスタントの成立へとつながっていった。

1483年ローマ帝国・アイスレーベン(現在のドイツ・ルターシュタット・アイスレーベン)に生まれる。父は鉱夫で、子供の教育に非常に熱心だったという。マンスフェルトの教会付属の学校で学び、次いでマクデブルク、アイデハナで教育を受ける。1501年にエルフルト大学に入学。法律を学ぶ。1505年、ロースクールに入学した年に思い立ち、修道院に入ることを決めた。1506年にマルティン・ルターは修道士となり、清書を深く学ぶようになる。1508年ヴィッテンベルク大学講師、1512年神学教授になった。そして1517年ローマ教会が行った罪が減じられるとされる証書、贖宥状を販売したことに抗議して「九十五ヶ条の論題」を発表。宗教改革の口火を切った。当時ローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の修復費用を捻出するために、贖宥状を販売し、贖宥状を買った者は教会が天国行きを保証すると宣伝していた。マルティン・ルターの発表した九十五ヶ条の論題は、同様に教会に疑問を持っていた信者たちを巻き込み、大きな運動となっていった。マルティン・ルターは「ドイツ貴族に与える書」、「教会のバビロニア捕囚」、「キリスト者の自由」などを発表。教会批判を強めていく。そして1521年ローマ教会から破門された上、帝国アハト刑を受けローマ帝国内における全ての法的権利や財産を剥奪された。マルティン・ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世に保護を求め、1年ほどヴァルトブルク城に匿われた。その後は、ルターを支持する諸侯を回り、新たなキリスト教信仰を広めようとした。1529年ローマ帝国議会はカトリック教会とルター派双方を認める決定を下したが、ルター派の諸侯はこれに抗議。以降、ルター派の諸侯と都市は「プロテスタント」と呼ばれるようになった。1546年故郷のアイスレーベンで死去。享年62歳。