朱子

儒学者

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朱子の名言

朱子の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 言うなかれ、今日学ばずして来日ありと。言うなかれ、今年学ばずして来年ありと。

  • 同異をもって喜怒を為さず、喜怒をもって用捨を為さず。

    解説:  他人と意見が違っているからといって、喜んだり、怒ったりしてはいけない。喜びや怒りの感情で用いるか捨てるかを決めてはいけない。

  • 血の気の怒りはあるべからず、理義の怒りは無かるべからず。

    解説:  カッとなって怒るようなことがあってはいけない。逆に道理が通っているならば、怒らないことがあってはいけない。

  • 人の患難に於ける、ただ一箇の処置あり。人謀を尽くすの後は、却ってすべからく泰然としてこれに処すべし。

  • 事を論じては、祇だ当に其の理の是非を言うべし。其の事の利害を計る当からず。

    解説:  議論をするにあたってはそのことの是非のみについて発言すべきである。自らの利害を計ってはいけない。

  • 大疑は大進すべし、小疑は小進すべし、疑わざれば進まず。

  • 万事成らざれば須らく吾が志を責むべし

  • 人身を以て之れを言へば、則ち気を神と為して精を鬼と為す。

  • 臣子は身を愛して自ら佚するの理なし。

  • 専ら力を人道の宜しき所に用ひて、鬼神の知るべからざるに惑はざるは、知者の事なり。

  • 謂ふなかれ今日学ばずとも来日ありと。言うなかれ、今年学ばずして来年ありと。

    解説:  「今日学ばなくても、明日学べばいい」、「今年学ばなくても、来年学べばいい」などと言ってはいけないのだ。

  • 学者、当に常に『志上溝壑に在るを忘れず』を以って念と為すべし。則も道義重くして、而して死生を計較するの念軽し。

  • 敢へて衆説を会して、其の衷を折す。

  • 万事成らざれば須らく吾が志を責むべし。

    解説:  ものごとが達成できない時は、まず自分自身の志を責めなさい。

  • 人は欲あらば即ち剛なし剛ならば即ち欲に屈せず。

    解説:  人は欲に支配されている時に心の強さを失う。心の強い人は欲には屈しない。

  • 始学の工夫は、須らく是れ静坐すべし。静坐すれば則ち本原定まる。

  • 命は猶お令のごときなり。性は即ち理なり。天は陰陽五行を以って万物を化成す。気は以って形をなし、理も亦これに賦す。猶命令のごときなり。是において人と物との生、おのおのその賦するところの理を得るによって、以って健順五常の徳をなす。いわゆる性なり。

  • 人は欲あらば即ち剛なし 剛ならば即ち欲に屈せず

  • 精神一到何事か成らざらん。

    解説:  精神を一つに集中して事を成すのだ。

  • 却って愁ふ説きて無言の処に到りて信ぜず人間に古今あるを。

  • 心情に敬の状態あれば、股体おのずと引き締まり、何も意識して加減せずとも、股体おのずから伸びやかにならん。

  • 聖人は太極の全体なり。

  • 近ごろ陸子静の言論風旨の一二を聞くに、全く是れ禅学。

  • 無極にして太極ありとは、ただ形なく而も理あるをいう。無極なれば形なく、太極なれば理あり。

  • 小人閑居して不善を為す。

  • 世俗大抵十分に八分は是れ胡説有り、二分亦此の理有り。

  • 鬼神の事は自ら是れ第二着なり。那箇の形影無きは是れ理会し難き底なれば、未だ去きて理会するを消ひず。且らく日用の緊切の処に就いて工夫を倣せ。

  • 鬼神の事の如きは、聖賢説き得て甚だ分明なり。只だ礼を将って熟読すれば便ち見ん。二程初めより鬼神無しと説かず。但だ如今世俗の所謂鬼神無きのみ。古来聖人制する所の祭祀は、皆な是れ他れ天地の理此の如きを見得たり。

  • 少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず

  • 道統の伝に於て、敢えて、妄議ぜずといえども、然れども初学の士、或ひはこれを取ること有れば、則ち遠くに行き、高きに升るの一助たるに庶からんとしか云ふ。

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朱子について

「朱子」はのちにつけられた尊称で、名を「朱熹」という。12世紀に活躍した中国の儒学者。北宋の周敦頤・程顥・程頤らの学説を統合して儒教の体系化を図って儒教を発展させ、朱子学を創始した。代表的著書に「周易本義」、「詩集伝」「四書集注」、「資治通鑑綱目」がある。

1130年中国・福建省の尤渓に生まれる。父は官吏だった。14歳で父を亡くし、胡憲・劉勉之・劉子翬らのもとで勉学に励む。19歳で官吏の採用試験である科挙に合格し、24歳の時に任官して福建省の同安県で簿記係を4年間務めた。この頃、儒学者の李侗のもとで学び、朱子は儒教へと傾倒していき、李侗からも高く評価された。28歳で官職を退き、学問で専念する。朱子は北宋で台頭した新しい儒学に注目し、周敦頤・程顥・程頤らの学説をもとにして自らの学説を展開・体系化し、多数の著作を残した。49歳のとき南康軍の知事に任命され、2年間務める。そこでの働きが評価され、1年以内の短期間であったが朱子は官職をいくつか務めた。その後、有力官吏の韓侂冑が権力を握ると、朱子学を偽学と断じて、弾圧を始める。朱子は官職から追放され、著書はすべて発禁処分とされてしまう。1200年朱子学への弾圧が続く中で死去。享年71歳。死後、明の時代に道徳的規範の妥当性の根拠を示す朱子学が注目され、国境と定められた。さらに13世紀には挑戦に伝播。朝鮮王朝ではそれまで国教だった仏教を国教から外し、朱子学を唯一の学問とした。江戸時代には日本にも伝わり、道徳の規範となるなど、朱子学は東アジアで大きな影響を残した。