パブロ・ピカソ

画家

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パブロ・ピカソの名言

パブロ・ピカソの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 人生の意味とは、あなたなりの贈り物を見つけることだ。人生の目的とは、その贈り物を贈ることだ。

  • 専門家であるかのように方式を学ぶのだ。芸術家としてそれを破壊するためにね。

  • ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ。

  • できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

  • 盗用を行う者は一つの対象から盗む。一方で真の芸術家は、あらゆるものから盗む。

  • 人生の最初の半分は大人になることを学ぶものであり、人生の次の半分は子供になることを学ぶものだ。

  • なにか異変が起きると、人はそれを改めようとするが、人には改めることが出来ない。異変が人の内面を明らかにするだけだ。

  • 明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。

  • 良い芸術家は真似をする。偉大な芸術家は盗む。

  • あなたの行った仕事が厄介事を引き起こさないなら、その仕事は十分でない。

  • どんな物にも、ひびがある。でも、光が差し込むのは、そこからなのさ。

  • 結婚して幸福になるには、汗の苦労を絶えず分かち合わねばならない。

  • 一歩一歩はい上がるのは冒険家ではなくて、幸福を追っかけている男のすることだ。人生は取るに足りない夢だ。いつかは消え去ってしまうのだ。

  • 子供の頃は誰しもが芸術家だ。問題は、どうやったら大人になったときに芸術家でいられるかだ。

  • 人生を二分法に支配させてはならない。人生における二分法とは、仕事では嫌なことをし、余暇だけを楽しむということだ。仕事でも余暇と同等の幸福が得られる状況になるよう努めるのだ。

  • 私が絵を描くとき、私自身もキャンバスになにが描かれるのか認識していないのだ。

    出典:  ドリー・アシュトン「Picasso On Art: A Selection of Views」

  • インスピレーションは私が自ら生み出すのではない。私にできる唯一のことは、それを逃さないことだ。

  • 人々はものごとが何かを見極め、それがなぜなのかを聞く。私はものごとに可能性を見出し、なぜできないのかを聞く。

  • 私は常に私にはできないことに取り組んでいる。それができるようになるかもしれないのだから。

  • 弱き人こそ薄情である。本当の優しさは強き人にしか期待できない。

  • まだ経験したことのないことは怖いと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。

  • 太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる。

  • 私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ。

  • 冷静に、かつ忍耐強く、未来を見通す力だけが、未来を実現してゆく。

  • 人間はあらゆるものを発明することができる。ただし、幸福になる術をのぞいては。

  • 歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何ものであろうか。

  • すべてのものは、限られた量しかない。とくに幸福は。

  • 芸術とは、われわれに真実を悟らせてくれる嘘である。

  • ひらめきは、自分で呼び込めるものではない。わたしにできるのは、ひらめきを形にすることだけだ。

  • 人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。これは我々の時代にはびこる病気だ。

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パブロ・ピカソについて

パブロ・ピカソは20世紀のスペイン及びフランスで活躍した画家。スペインの生んだ20世紀最大の芸術家と言われる。その独特な表現手法から現代美術にキュビズムと呼ばれる作風が美術界のムーブメントとなった。キュビジュムでは旧来から続いてきた単一視点からの絵画ではなく、複数視点からの絵を一画面に収めること、対象の大胆な抽象化が行われることが特徴。非常に多くの作品を残しており、絵画はおよそ1万3500点、版画は10万点が現存すると言われる。代表的な絵画に「ゲルニカ」、「泣く女」、「アビニヨンの娘たち」、「夢」、「パイプを持つ少年」、「ヌード、観葉植物と胸像」などがある。

1881年10月25日、スペイン・マラガに生まれる。父は美術学校で教師をしていた。ラ・コルーニャ、バルセロナの美術学校で学んだ後、1899年にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。しかし、ピカソは早々にアカデミーを退学、画家として活動を始める。初期のピカソの作風は「青の時代」と呼ばれ、青を基調として貧しい人々を描き、「老いたギター弾き」、「海辺の母子像」などの作品がある。1904年からパリに居を移す。1905年頃からのピカソは「バラ色の時代」と言われ、明るい色彩で柔らかく優しい作風となる。この頃「パイプを持つ少年」、「サルタンバンクの家族」といった作品が生まれた。1907年に「アビニヨンの娘たち」を完成させる頃には作品にキュビズムの手法が取り入れられるようになっていった。

第一次世界大戦後の1918年から1925年頃までのピカソは、古典的で写実的な技法を取り入れ、「海辺を走る二人の女」、「安楽椅子のオルガ」などの作品を製作。1925年以降のピカソは、シュルレアリスム(超現実主義)に傾倒し「ダンス」、「磔刑」などの作品を残す。第二次大戦前の1937年頃から、ピカソはキュビズムを用いて非現実的な作風を用いるようになり、ナチス・ドイツのスペイン爆撃を描いた「ゲルニカ」や、自らの愛人を描いた「泣く女」といった作品を製作。その後も意欲的に創作活動を続け、特に1950年以降は版画、陶芸にも力を入れ多くの作品を残した。1973年、肺水腫により死去。享年91歳。