坂本龍馬

維新志士

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坂本龍馬の名言

坂本龍馬の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 金より大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。

  • 世の人は、我を何とも言わば言え。我が成すことは我のみぞ知る。

    出典:  「竜馬の手紙」

  • 人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。

  • 世の人は われに何とも言わばいへ 我がなすことは我のみぞ知る

  • 事は十中八九まで自らこれを行い、残り一、二を他に譲りて功をなさむべし。

  • 業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。

  • 偏見を持つな。相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。

  • 人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。

  • 義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。

  • 何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり。

  • 財政の独立なくては、思想の独立もなく行動の自由もない。

  • 英雄とは自分だけの道を歩く奴のことだ。

  • 生きるも死ぬも物の一表現に過ぎぬ。いちいちかかずらわっておれるものか。人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよい。

  • 一つの概念を喋るとき、その内容か表現に独創性がなければ男子は沈黙しているべきだ。

  • わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。

  • 天下において、何事かを成そうとする者は、膿も良く腫れないうちには針で患部を突くことができないのと同じで、時期を判断することが大切です。

  • 世の中のことは、月と雲のようにどうなるかわからず、おかしいものである。

  • 国を開く道というものは、戦いをする者は戦う、修行する者は修行する、商売をする者は商売するというように、銘々が自分のことをやり抜くほかにはない。

  • 男はどんなくだらぬ事ででも死ねるぞという自信があってこそ、大事を成し遂げられるものだ。

  • 四、五十人も人数が集まれば一人ぐらいは異論家はいる。いるのが当然でもある。その一人ぐらいの異論を同化できぬ己を恥じろ。

  • 人間はなんのために生きちょるか知っちょるか?事をなすためじゃ。ただし、事をなすにあたっては人の真似をしちゃいかん。

  • 人の諸々の愚の第一は他人に完全を求めるというところだ。

  • 人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進歩するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえ、その目的が成就できなくてもその目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だから、これを計算に入れてはいけない。

  • 人間、不人気では何も出来ませんな。いかに正義を行なおうと、ことごとく悪意にとられ、ついにはみずから事を捨てざるをえなくなります。

  • 男子は生あるかぎり、理想をもち、理想に一歩でも近づくべく坂をのぼるべきである。

  • 天下のために働こうとして、土佐藩から一銭一文の資金も援助されることなく、志のある若者たちを50人も養おうとすれば、一人につきどうしても60両は必要となることから、利潤を求めなければなりません

  • 土佐で生まれた者が他藩に仕え、そしてまた土佐藩に仕えたとしても、天下のためを考えればおかしなことではありません。女性が二君に仕えることを否定されるのと同じように、志士まで二君に仕えることを非難されたら、自分の考え方を貫くことができません。そのため、浪人するにせよ、土佐藩を助けるにせよ、二君に仕えるか否かという論理を捨てなければ自分の考えを実行することはできません。

  • 俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。

  • 俺は着実に物事を一つずつ築きあげてゆく。現実に合わぬことはやらぬ。

  • 粗末な服では人に笑われる?それがおもしろいじゃないか。

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坂本龍馬について

江戸時代末期の土佐藩士、維新志士。薩長を結びつけ、薩長同盟締結に導いたとされ、大政奉還にも尽力したとされている。

1836年(天保6年)坂本龍馬は土佐藩の下級武士の次男として生まれる。坂本家は当時土佐の豪商だった才谷屋の分家にあたり、裕福な一家だった。1853年(嘉永6年)17歳で剣術修行で江戸へ出ると、ペリー来航を目の当たりにし、尊皇攘夷の活動に共鳴するようになる。土佐藩に戻ると坂本龍馬は尊皇攘夷を掲げて土佐藩内で活動していた土佐勤王党に加盟。やがて土佐藩を脱藩して勝海舟の神戸海軍操練所設立に協力したり、貿易会社の亀山社中(のちの海援隊)を結成した。亀山社中は薩摩藩の依頼で長崎のグラバー商会から拳銃約7000挺を買い付けて長州藩に譲渡。これが薩摩藩と長州藩接近の最初のきっかけとなる。その縁もあって坂本龍馬は薩摩・長州の間を取り持って薩長同盟を仲介した。薩長同盟締結の場に立ち会い、同盟書に裏書している。さらに薩摩・長州に坂本龍馬の出身藩である土佐藩を加えた三藩連合にも尽力した。大政奉還のきっかけになった土佐藩の大政奉還の建白にも関わったとされる。大政奉還成立の翌月に坂本龍馬は京都で暗殺された(近江屋事件)。享年31歳。