橋本左内

武士、思想家

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橋本左内の名言

橋本左内の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって、技能に習熟するだけのものでは、決してない。

    出典:  橋本左内「啓発録」

  • 志のない人間は魂のない虫と同じで、いつまでも発展することは無いのだ。しかし一旦、何物にも負けないほどの志が立てば、それ以後は日夜発展するものである。天下に名を残した人物も、特別な人間であったわけではなく、その大志と堅固な意志とによって名を残したのである。

  • 今日から聖人、豪傑を志した者が、明日、明後日と順次にそれに合わない性質を少しづつ取り去れば、最初は才能の無い者でも、聖人・豪傑の地位にまで達することが必ずできる。

  • 気とは、人に負けまいと思う心、すなわち負けじ魂と、恥辱を知ってそれを悔しく思う気性のことである。

    出典:  橋本左内「啓発録」

  • 激流にも耐えられる柱のように、揺るぎない信念を心に持つことだ。

  • 一度志を立てた以上は、何よりもまず目的を定め、少しの時間も無駄にせず、確実な道を歩んで、その目的を達成するように努力するのがよい。

  • 一事を根気よく長時間続けることは困難なのである。勉とはそれに打つ勝つだけの忍耐力の養成を意味する。

  • 人間おのずから用に適する所あり、天下何ぞなすべき時なからむ。

  • 学とは「ならう」ということで、すぐれた人物の立派な行いを習い、みずからもそれを実行していくことである。

  • 大多数の世間の人々が、平凡な一生を終るのは志が小さく、意志が弱いからだ。

  • 誰にでも何かの仕事に適する素質がある。世の中が必要とするものは多く、自分が役に立てることが必ずある。

  • 学問は生涯を通じて心掛けねばならない。

  • 志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で、自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい。

  • 常に恥とは何かを知り、人に負けない様に強い気を持ち、どんなときでも権力に盲従してはならない。

  • 私たちは生涯、忠義を尽くし、御恩に報いる目的で一切の艱難を乗り越えなければならない。

  • 何事も他人に負けてはならないとする気持ちと、決めた目的の下に一刻も油断なく、心の緊張を失わないことが大事だ。

  • 幼稚な心を取り去らなければならない。自己の修業を怠り、父母への依頼心を持つなどは幼稚な心である。幼稚な心を持てば何事も上達せず、とても天下の大豪傑などになれない。武士道第一歩は、幼稚な心を取り去ることだ。

  • 勉、つとめるというのは、自己の力を出し尽し、目的を達成するまではどこまでも続けるという意味合いを含んだ文字である。

  • 急流中底の柱、即ち是れ大丈夫の心。

  • 志のない人間は魂のない虫と同じで、いつまでも発展することは無いのだ。

  • 男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面しているかという点のみ。

  • 偉人の経歴を読書により知って憧れること、師や友から聞いたことに発憤すること、自分が逆境に陥ったときに勇猛心を起こすこと、感激することの四つが志を立てる大きな理由となる。

  • 後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか。

  • 第一番に稚心を去らねばならぬ。

  • 目標に達するまでの道筋を多くしないこと。

  • 友人の中にも損友と益友がある。益友とは自分の欠点を遠慮なく告げてくれる友のことである。益友の印象は悪い。時には自分の感情を害する言行もあるが、大切にしなければならない。益友の言葉により自分を正しい道に導き、欠点に気付き、矯正するのがよい。

  • さみだれの かぎり有りとは しりながら 照る日をいのる こころせはしき

  • 二十六年、夢の如く過ぐ。平昔を顧思すれば感ますます多し。天祥の大節、嘗て心折す。土室なほ吟ず、正気の歌。

  • 去稚心、振気、立志、勉学、択交友。

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橋本左内について

橋本左内は幕末に活躍した福井藩藩士。幼いころから聡明さで知られ、15歳で「啓発録」を著す。福井藩主・松平春嶽の命を受け、薩摩藩主・島津斉彬の下で働いていた西郷隆盛らと13代将軍・徳川家定の後釜に一橋慶喜を据えることを計画。しかし、この計画は頓挫し大老・井伊直弼による安政の大獄で斬首された。

1834年(天保5年)福井藩奥外科医・橋本長綱の長男として生まれる。15歳のとき、橋本左内は「啓発録」を執筆。これは「去稚心、振気、立志、勉学、択交友」の5項目からなる若い武士たちに向けて武士の生き方を記した書だった。1849年(嘉永2年)大阪に移り「適塾」に入学。橋本左内は緒方洪庵や杉田成卿から蘭方医学を学んだ。その後、福井藩主・松平春嶽に取り立てられて江戸に移り、13代将軍・徳川家定の跡継ぎとして一橋慶喜を据えるための政治活動を行う。この活動は倒幕運動ではなく、幕藩体制は維持しつつ、将軍・一橋慶喜のもとで幕府の権力構造を変え、西洋の列強に対抗する国家を作るという構想であった。この構想はこの頃台頭してきた井伊直弼によって潰されて失敗に終わり、徳川家茂が14代将軍となり、井伊直弼が大老の職に就く。1859年(安政6年)橋本左内は井伊直弼による反対派の弾圧事件「安政の大獄」で捕らえられ、将軍後継問題で活動したことが咎められ、伝馬町牢屋敷で斬首された。享年25歳。