吉田松蔭

教育者、思想家

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吉田松蔭の名言

吉田松蔭の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。

  • 夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なきものに成功なし。

  • 味方の協和が得られて、初めて地形の有利さも、自然の条件も役に立つのである。それ故に、国家の務めを論ずる場合には、まず味方の協和の問題を取り上げねばならない。

    出典:  吉田松陰「講孟箚記」

  • 大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。

  • 君子は、人として踏み行うべき義理の心が足りないことを恥じ、小人は、名誉がないことを恥じる。

  • 過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ。

  • 私は人を信じて失敗することがあっても、人を疑って失敗することは絶対無いようにしたい。

  • 人生というものは極めて短いものであり、夢、幻のようなものである。誹りを受けることも、褒められることも一瞬である。栄えることも衰えることも瞬時である。はかない人生である中で、ひとつだけでいい、永遠に朽ちない事柄をなし遂げられれば十分である。

  • 順境にある者は怠りがちである。また、逆境にある者は励みやすい。

  • 全ての能力が備わっていることを一人に求めてはいけない。小さな間違いを理由に人を捨てていては、素晴らしい才能を持った人を得ることはできない。

  • 士は過ちなきを貴しとせず、過ちを改むるを貴しとなす。

  • 死して不朽の見込みあれば、いつでも死すべし。
    生きて大業の見込みあれば、いつでも生くべし。

  • 志を持て、そして気力を養え。ただしそれだけでは学者にすぎない。旺盛な行動力を持って行動せよ。

  • 志を立てるためには、人と異なることを恐れてはならない。

  • 道を明にして功を計らず、義を正して利を計らず。

  • 末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から、極端だと言われるであろう。もしまた、世人から極端だと言われるくらいでなければ、決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。

    出典:  吉田松陰「講孟箚記」

  • 正しくある事ができるかどうか、事を成すことができるかどうかは、志があるかどうかによる。だから武士たる者は志を立てなければならない。志さえあれば、目標が遠く難しくても達成することが必ずできる。

  • つまらぬ名言を費すよりも、至誠を積み蓄えなさい。

  • 成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。

  • 自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。

  • 身体が死滅しても、その精神が死んでいないものは、昔の聖人や賢者らであり、これらは永遠に朽ちることのない人である。身体は死滅していないが、精神が死んでいるのは、今のくだらない人間の類であり、生きながら死んでいる人である。

  • つまらない人が見るのは形である。立派な人が見るのは心である。

  • 人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。

  • 計画が失敗するほど志が堅くなる。天が我々を試しているのだ。失敗を気にする必要などない。

  • 立派な人は何事にも道理にあうかどうかを考えてから行動に移す。つまらない人は何事にも得するかどうかを考えてから行動に移す。

  • 英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。

  • 賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。

  • 敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。

  • 小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。

  • 我が身を正すという志を果たして後、国家全体を善導することができる。

吉田松蔭について

長州(現在の山口県)に私塾、松下村塾を開き、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋、吉田稔麿、久坂玄瑞、品川弥二郎ら明治維新で活躍する人材を多く育てる。ペリー来航の際に黒船に乗船しようとして拒否された逸話は有名。1859年、幕府が諸外国と不平等条約を結んだことに反対したとして、大老・井伊直弼に捕えられ、死罪となった(安政の大獄)。

1830年(文政13年)現在の山口県萩市で長州藩士・杉百合之助の次男として生誕。1834年(天保5年)叔父で同じく長州藩士の吉田大助の養子になる。若いころからその頭脳明晰さは際立っており、9歳のときから長州藩の藩校・明倫館で兵学の講義をしており、11歳のときに吉田松蔭は藩主・毛利敬親の前で「武教全書」を講義したという。1848年(嘉永1年)で明倫館の師範となる。翌年、藩の許可を得て九州を遊学し、熊本でのちに盟友となる宮部鼎蔵と知り合った。1850年(嘉永3年)吉田松蔭は藩主にお供して江戸へ趣き、兵学研究を行う。翌年宮部鼎蔵らと藩の許可を得ずに東北視察に出かけ、1852年(嘉永5年)山口の長州藩へ戻ると亡命の罪に問われるが、藩主・毛利敬親の計らいで諸国遊学を許可される。1854年(安政1年)金子重之助とともに浦賀に来航したアメリカの軍艦に乗り込み、海外渡航を企てるが失敗。自首して幕府によって江戸伝馬町の獄舎に捕らえられた。のちに吉田松蔭は長州の野山獄に送られた。1855年(安政2年)27歳のとき、牢からの出獄を許され、生家での禁錮を命じられると、長州藩士の子弟を集めて塾を開く。この塾が叔父が主宰していた松下村塾と合体し、松蔭主宰の松下村塾となった。この松下村塾で吉田松陰は伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋、吉田稔麿、久坂玄瑞、品川弥二郎ら明治維新で活躍する志士たちを教育した。1858年(安政5年)吉田松陰は老中首座・間部詮勝の襲撃策を練り、周囲に打診するが、これが藩に露見し野山獄に捕らえられてしまう。1959年(安政6年)幕府は長州藩に吉田松陰の江戸送致を命令。江戸に送られた吉田松陰は間部詮勝の襲撃計画を自白し、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年29歳。

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