徳川秀忠

江戸幕府第二代将軍

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

徳川秀忠の名言

徳川秀忠の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 人、忠告を受けてはかえってその人を恨むに至る

  • 月が二つあっては天下は治まらないだろう。月を二つにするも、一つにするも、全て我が心次第

    解説:  月が二つとは、秀忠と家康のこと。秀忠は将軍就任後も大御所となった家康に従い続けた。

  • 人を用いるに過失をもってこれを棄つるなかれ。よろしくその自身を許すべし。

徳川秀忠の名言を見ている方へお薦めする名言

徳川秀忠の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

徳川秀忠について

徳川秀忠は家康の跡を継いで江戸幕府の第二代将軍となった武将。家康の3男だったものの、長兄が死去、次兄が秀吉の養子となったことで後継者候補となった。関ヶ原の戦いで参戦が遅れ、決着後に到着するという失態を演じた。将軍就任後は幕藩体制の確立に手腕を発揮。

1579年徳川家康の三男として側室西郷局との間に生まれる。長兄・信康は秀忠が生まれた年に切腹しており、次兄秀康は豊臣秀吉の養子となり、後に結城氏を継いだ。そのため秀忠が実質的な長兄として扱われることとなった。織田信雄の子で豊臣秀吉の養女となった6歳の小姫と縁組したが、織田信雄の失脚によって離縁している。1595年(文禄4年)、浅井長政の娘で秀吉の養女となった江と結婚。

1600年(慶長5年)の関が原の戦いで徳川秀忠は、西進の途上で信濃上田城の真田昌幸攻めに時間を空費し、決戦に間に合わないという失態を演じた。

関ヶ原の失態によりその手腕を疑問視されたものの、その文智により家康の後継者に選ばれ、1605年(慶長10年)家康から将軍職を譲られる形で征夷大将軍となる。当初は家康が大御所として政治の実権を握り、徳川秀忠はおもに東国の大名の統率にあたっていたとされる。幕府の主権者となったのは1616年(元和2年)に家康が死んでからのことであった。家康の死後は「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」を制定したり、有力大名・福島正則を含む41もの改易を断行。また異母弟たちに尾張、紀伊、水戸を任せ、徳川御三家体制を確立するなど幕府の権力体制の確立に力を注いだ。1632年(寛永9年)死去。享年53歳。