高杉晋作

長州藩士、維新志士

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高杉晋作の名言

高杉晋作の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛び出すことだ。思案はそれからでいい。

  • 生きるか死ぬかは時機に任せよう。世の人が何と言おうと、そんなことは問題ではないのだ。

  • 国のために家が潰れても、家などは軽いものである。世間が僕を狂っているといっても構わない。

  • 過ちを改めれば、それは過ちではないのだ。

  • 古くから天下のことを行う者は、大義を本分とし、決して他人に左右されることなく、断固として志を貫く。禍福や死生によって気持ちが揺れ動いたりするものではない。

  • 百万の大群、恐るるに足らず。恐るるべきは、一人一人の心なり。

  • 英雄が出るためには、時代が準備されていなければならない。

  • シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。

  • 負けて退く人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。

    解説:  戦に負けて退却する人を弱いと思ってはいけない。知恵があるから一旦退くのだ。

  • 友の信を見るには、死、急、難の三事を以て知れ候。

  • 「これぐらい大したものではない」と心で唱える。難しくて我慢できないことをこの方法で乗り切る。これは自分の中の神を見つめる心を研ぐ方法である。

  • どんな事でも周到に考えぬいたすえに行動し、困らぬようにしておく。それでもなおかつ窮地におちた場所でも「こまった」とはいわない。困ったといったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

  • 天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。

  • 先が短いなら短いなりに僕は面白う生きたい。派手な打ち上げ花火を打ち上げて、消えていく…それが高杉晋作の生き方。

  • 人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。

  • 世間の人々は名誉や利益を追って走っている。そんな時代に利益や名誉を捨てる僕のようなものが他にいるだろうか。僕はたとえ牢で死んでも恨みはない。

  • いまの場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。尊王の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。

  • 今は一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義を尽くすとき。志士は一瞬でも立ち止まってはならぬ。

  • 雑念をやめ静かなときも動くときも心を同じにするのがよい。何かひとつだけのことを考えるならば雑念が自然となくなり、素早く実行できる。

  • 私の志は国家を安泰にし、君主の気持ちを安心させることにある。そのために昼も夜も努力する。自分が非難を受けることを考える暇などないのだ。

  • 死後に墓前にて芸妓御集め三弦など御鳴らし御祭りくだされ。

  • 苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように。

  • 「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」という事こそが人の道である。人としての努力をすることもなく、ただ死に向かうのは人の道ではない。

  • 人間というのは、艱難は共にできる。しかし、富貴は共にできない。

  • 国のことを考え、自分のことは考えなかった。しかしついに牢に入れられてしまった。世間の人が何と批判しようと構わない。ただ真心を持って静かに神と向かい合うだけである。

  • 同志と共に国を作ろうとしている。曲がった国が真っ直ぐになるのはいつか分からない。その苦労は死んでからじっくりと味わおう。

  • 今さらになにをかいわむ 遅桜故郷の風に散るぞ うれしき先生を慕うて ようやく野山獄

  • おもしろきこともなき世におもしろく

  • 人間、窮地に陥るのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし、死地に陥れば、それでおしまいだ。だから、おれは困ったの一言は吐かない。

  • 支那人がことごとく外国人に使役され、英仏人が町を歩けば清人はみなよけて通る。それは清が英仏の属国になっているからで、日本人も心すべきだ。

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高杉晋作について

高杉晋作は幕末の長州藩藩士。吉田松陰の松下村塾で学び、上海視察を経て尊王攘夷運動に身を投じた。町人や農民を参加させた奇兵隊を組織。その後長州藩内で台頭し、同藩を倒幕へと向かわせた。第二次長州討伐で幕府軍を破るも、翌年病気により死去。

1839年(天保10年)長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれる。1857年(安政4年)吉田松陰の松下村塾に入る。学業は優秀で久坂玄瑞と双璧とされた。翌年1858年(安政5年)に高杉晋作は藩命で江戸へ赴き、昌平坂学問所や大橋塾などで学んだ。1851年(文久1年)藩命により上海へ渡航、欧米の植民地となっていた清の状況を見て強い影響を受けたという。帰国後は桂小五郎や久坂玄瑞とともに長州藩において尊王攘夷運動を展開する。長州藩は外国船砲撃を断行するも、米仏の反撃にあい惨敗。高杉晋作は下関防衛を命ぜられ奇兵隊を結成。奇兵隊は庶民でも入隊できる有志隊で、奇兵隊の「奇」は正規軍と異なる軍隊という意味だった。

1864年(元治1年)には武力上洛をめぐる藩内の意見対立で脱藩し投獄される。同年8月には恩赦され下関砲撃の和平交渉を成功させる。その後藩内で主導権を握った幕府恭順派に対し、奇兵隊とともに挙兵、勝利を収める。藩内の対立に巻き込まれ再び脱藩するも、桂小五郎の斡旋で藩に復帰。1866年(慶応2年)幕府の長州討伐で高杉晋作は小倉方面の戦闘を指揮し、幕軍を破った。しかし、倒幕運動の中、翌年肺結核で死亡。享年27歳。