大久保利通

武士、政治家

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

大久保利通の名言

大久保利通の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 目的を達成するためには、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進め。

  • 最善を得ざれば次善、次善を得ざれば、その次善と、できる程度において、出来うる事をなす

  • 聖人の言といえども時勢によっては全部応用することはできない、時勢に応じて活用しなければならぬ。

  • 政治も戦争も正当な根拠なしに行って成功することはない。

  • 今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず。

  • 外国勢力と戦おうとする方法はただ筆と墨を用いるにある。武器を用いてやるのではない。

  • 人材を挙ぐるは政の本なり

    解説:  人材を登用するのは政治の本分である。

  • やりすぎるのはやり足りぬより悪い。

  • 為政清明

    解説:  政治を行うには、清廉潔白さと公明正大さが求められるということ。

  • 非義の勅命は勅命にあらず

    解説:  第二次長州征伐にあたって、幕府が朝廷から長州討伐の勅命を受けたことに関して

  • この難を逃げ候こと本懐にあらず。

  • およそ国の強弱は人民の貧富により、人民の貧富は物産の多寡にかかる。しかして物産の多寡は人民の工業を勉励すると否さるとに胚胎すといえども、その源頭を尋るに未だかつて政府政官の誘導奨励に力に依らさるなし。

    出典:  殖産興業の建白

    解説:  国の強さは生産力に基づく国民の貧富によって決まる。生産力は工業を奨励するかどうかも要因ではあるが、その源流を探ってみると未だに政府の奨励で達成された例は無い。

  • 国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。

  • ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ。

  • 空論に馳せ新奇を好むべからず。

  • 二人の子供を外国人の先生に頼んで教育してもらっているが、大いに成績をあげている。子供のうちに学問や諸芸に励まなければいけないので、わざわざ外国人に頼んで教育させている。二人ともことに成績がよろしいと先生も誉めている。

  • おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が。

    解説:  西南戦争で西郷が自害したと聞いて言ったとされる名言。

  • ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。

  • 名に背き義に戻り天時人事にそむき候て勝利を全うし候例、古今和漢未だ聞かざるところなり。

  • そもそも国家人民のためにその責任ある者は深く省察念慮をつくし、工業物産の利より水陸運輸の便に至るまで、総じて人民保護の緊要に属するものは宜しく国の風土習俗に応じ、民の性情智識に従つてその方法を制定し、これをもって今日行政上の根軸と為し、その既に開成するものはこれを保持し、未だ就緒ならざるものはこれを誘導せざるべからず。

    出典:  殖産興業の建白

  • 自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない。

大久保利通の名言を見ている方へお薦めする名言

大久保利通の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

大久保利通について

大久保利通は薩摩藩の武士として倒幕を主導し、明治維新に貢献した武士。明治維新後は政治家としても活躍。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」とも称される。

1830年(文政13年)鹿児島県鹿児島市生まれ。父は薩摩藩の下級武士、大久保利世。1846年から薩摩藩に仕える。1850年の薩摩藩主・島津斉興の後継として島津久光を推す家臣と島津斉彬を推す家臣が対立する(お由羅騒動)。大久保利世・利通親子は斉彬派に属したものの、藩主斉興は久光を支持。斉彬派は粛清され、大久保利世・利通親子とも罷免され、謹慎処分となる。1851年和解が成立し斉彬が藩主となると大久保利通は謹慎を解かれ、復職した。1862年京都の政局を担当する任に就き、公武合体路線を目指して公家の岩倉具視らと協力。京都での働きが認められ、薩摩藩内での地位を高める。1867年(慶応3年)幕府が大政奉還を上表した同日、朝廷から討幕の密勅を引き出すことに成功(偽造との説もある)。さらに王政復古の政変を主導し、江戸幕府の影響力を廃絶した新政府の樹立を宣言し、明治維新は成功する。

明治時代に入ると大久保利通は新政府の参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県に関わった。1873年(明治6年)西郷隆盛らの主張する朝鮮出兵に大久保が反対して対立。征韓論を押さえ込んで西郷ら征韓派を失脚させた。同年、内務省を設置して、初代内務卿となり、政府の実験を握った。1878年(明治11年)征韓論に共鳴し、大久保利通の西郷隆盛への処遇に不満を持つ武士6人が大久保を襲い、大久保利通は暗殺された(紀尾井坂の変)。享年47歳。