西郷隆盛

武士、政治家

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西郷隆盛の名言

西郷隆盛の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業はなしえられぬなり。

    出典:  「西郷隆盛ー孤高の英雄全軌跡」

  • 税を軽くして国民生活を豊かにすれば、国力を養うことになる。だから国が多くの課題を抱え、財政の不足で苦しくなったとしても、税の定まった制度をしっかり守り、政府や上層階級が損を我慢して、下層階級の人々を苦しめてはならない。

  • 道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始するべし。

    出典:  西郷隆盛「南洲翁遺訓」

  • 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。

    出典:  西郷隆盛「西郷南洲遺訓」

  • 天は人も我も同一に愛し給ふゆえ我を愛する心をもって人を愛するなり。

  • 世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

  • 間違いを改めるとき、自ら間違っていたと気付けばそれでいい。そのことを捨てて、ただちに一歩を踏み出すべし。間違いを悔しく思い、取り繕うと心配することは、たとえば茶碗を割り、その欠けたものを合わせてみるようなもので、意味がないことである。

  • 私は若い時から、困難という困難に遭って来たので、今はどのようなことに出会っても動揺することはない。それだけは幸せである。

  • 小人は、己を利することを欲し、君子は、民を利することを欲する。

  • 功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ。

  • 己を尽くして人を咎めず。我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。我を愛する心を以って人を愛せ。自己を許すが如く人を許せ。人を責めるが如く自己を責めよ。

  • 戦争という言葉に怯え、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない。

  • 過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すれば、それでよい。そのことをさっぱり思いすてて、ただちに一歩を踏み出すことが大事である。

  • 人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。

  • 万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間近也。

  • 人が踏み行うべき道を実践するのに、身分が尊いか卑しかなどといったことはまったく関係がないことだ。

  • 節操を貫き、道義を重んじ、心清らかで恥を知る心を持つ。これを失うようなことがあれば、決して国家を維持することはできない。

  • 命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬというような人物は処理に困るものである。このような手に負えない人物でなければ、困難を共にして、国家の大業を成し遂げることはできない。

  • 正道を歩み、正義のためなら国家とともに倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる

  • 世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

  • 世間の人がいう機会とは、たいてい思いがけずに得た幸運のことを指している。しかし、真の機会というのは道理に適い、時の勢いを正しく把握して行動する場合のことだ。かねて天下国家を憂える真心が厚くないのに、ただ時の弾みに乗って成功した事業は、決して長続きはしないものだ。

  • 誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。

  • 聖人や賢人になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、とてもこのようなことは自分にはできないというような心であったら、戦いを前に逃げるよりも、はるかに卑怯なことだ。

  • 文明というのは、道理にかなったことが広く行われることを褒め称えていう言葉であって、宮殿が荘厳であるとか、衣服がきらびやかだとかといった、外観の華やかさをいうものではない。

  • 大きなことでも、小さなことでも、道理にかなった正道を踏み、真心を尽くし、決して策略を用いてはならない。

  • 正道を踏み国家をもって倒るるの精神なくば、外国交際はまたかるべからず

    出典:  「西郷南洲遺訓」

    解説:  正しいことをして国家とともに倒れる覚悟がなければ、外交交渉などできない。外交交渉にはものごとの道理と、国家とともに倒れてもよいと考えるほどの交渉する者の覚悟が必要である

  • 物事を成そうとの意気込みを広く持つ者にとって、もっとも憂えるべきことは自分のことをのみはかり、けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本として、自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。

  • 上に立つ者が下の者に対して自分の利益を争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もみなこれにならい、人の心は財欲にはしり、日に日に卑しく、節義廉恥の志を失い、親子兄弟の間ですら財産を争い互いに敵視するようになるのだ。このようになったら何をもって国を維持することができようか。

  • 人が踏み行うべき道を実践する者には、困難な苦しいことはつきものであるから、どんな難しい場面に立っても、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ。

  • 自分を愛することは、最もよくないことである。修業ができないのも、ことが成就できないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇って驕り高ぶるのも、みな自分を愛することから生ずることであり、決して自分を甘やかす心を持ってはならない。

西郷隆盛について

西郷隆盛は江戸幕府の打倒及び明治新政府の樹立に大きく貢献した薩摩藩士。江戸城への侵攻では、新政府軍の代表として幕府と交渉にあたり無血開城を成し遂げた。

1828年(文政10年)薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市)生まれ。父は薩摩藩の下級武士だった。西郷隆盛も薩摩藩士となり、1853年に家督を継いだ。しかし石高は父の代よりも減少しわずか41石余りだった。1854年浦賀にペリーが来航すると、幕政改革を訴えていた薩摩藩主・島津斉彬が江戸に参勤することになった。当時斉彬に目をかけられていた西郷は、江戸に随行することになり「庭方役」の役職を拝命した。下級武士の西郷隆盛にとっては大抜擢だった。斉彬は第14代将軍に徳川慶喜を推し、徳川家茂を推す大老・井伊直弼と対立した。西郷は斉彬の右腕として奮闘したが、井伊直弼は大老の地位を使って家茂を将軍職に就け、反対派を弾圧し始める(安政の大獄)。斉彬はこれに抗議して藩兵5,000人を率いて上洛を計画するものの、その途中で病死した。西郷は斉彬の死に絶望し、一時は自殺を決意したが斉彬の遺志を継ぐことを決意し思いとどまった。西郷はその後、幕府を中心とした日本のあり方を変え、幕府に代わる新しい政治体制を築くことに奔走するようになる。

1865年(慶応1年)西郷隆盛は坂本龍馬らの仲介で極秘裏に薩長同盟を締結。1867年には四侯会議を開催して雄藩連合政権の結成を目指し奔走したが失敗。同年10月将軍・慶喜が大政奉還を上表。1867年(慶応3年)江戸幕府の廃絶と新政府の樹立を宣言した王政復古のクーデターを起こす。1868年(慶応4年)1月鳥羽・伏見の戦いの戦いで旧幕府軍を破ると、同年3月西郷隆盛は勝海舟との会談ののち、江戸城の無血開城を成し遂げた。

明治新政府では参議という要職に就いた西郷隆盛だったが、次々に打ち出される欧米化政策に不満を抱き、現状打破を望むようになる。日朝間の外交問題が起こると西郷隆盛は征韓論を主張。1873年(明治6年)の閣議で西郷隆盛は自らが全権大使として朝鮮に赴くと主張、一旦は裁可された。しかしながら、大久保利通・岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らが猛烈に反対し辞職を表明すると、太政大臣・三条実美は行き詰まり急病を理由に辞職。太政大臣代理・岩倉具視が使節派遣中止を決定した。これを不服とした西郷は下野し鹿児島に帰郷した。西郷は鹿児島に士族の教育、軍事訓練などを行う私学校を設立し、人材を育てながら時機を待って改革に及ぼうと待機した。1877年(明治10年)西郷の動きを抑えようとする政府の妨害工作に対し、西郷配下の士族が激怒し武力反乱へと至る(西南戦争)。西郷隆盛は反乱の指揮を取るが、政府軍に破れ自害した。享年49歳。

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