生きているときは人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。林にあるときはマツで、切ったらスギになるという木はない。だから生前から仏であって、死んで仏になり、生前から神であって、死んで神なのだ。
二宮金次郎(二宮尊徳) 農政家、幕臣
この名言を見ている方にお薦めの名言
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もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。
村上春樹 小説家
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神よ、死の間際になって、やっと気づきました。あなたはそもそも生きたことがおありではなかったのですね。
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国家は、どんなにだらしない国民であっても保護する義務があるはずだ。当然でしょ、政府は国民の出したお金で成り立っているんだから。
橋下徹 弁護士、政治家
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たとえ肉体が滅んだとしても魂ってのは絶対無くならないんだ・・・・絶対に・・・。
松田優作 俳優
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政治家は究極のところ、自分を語る仕事。
橋下徹 弁護士、政治家
二宮金次郎(二宮尊徳)の他の名言
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心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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鳥獣は譲るということを知らない。人はそうではなく、今日のものを明日に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道がある。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれど、もしも金銭が銘々の願いどおりに多かったとしたら、砂や石となんの違いもない。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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世の人が、生きているときは人で、死んでから仏となるというのは間違っている。生きている時から仏であるから死んで仏になるのである。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。私はこういう人を半人前という。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上なしではないか。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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経文といい経書といい、その「経」という文字は、もともと機の縦糸のことだ。だから縦糸ばかりでは用をなさず、横に日々実行を織りこんで、はじめて織物として役に立つのだ。横に実行を織りこまず、ただの縦糸だけでは役に立たぬことはいうまでもない。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る、これを果というのだ。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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いかに善を思っても、行いによって善を表さなければ、善人とは言えない。それは、悪い事を考えていると言っても、実際に悪事をしなければ悪人といえないのと同じである。従って私はどんな小さなことでも、実際に善を行う事を尊ぶ。善心が起きたら、すぐに実行するのが良い。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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村を仁にすることは難しくはない。まずは自分の家を仁にすることである。それから善人や正直者を厚く賞すれば必ず村全体が仁となる。
二宮金次郎(二宮尊徳)
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氷を解すべき温気、胸中に無くして、氷のままにて用ひて水の用を為すと思ふは愚の至なり。
二宮金次郎(二宮尊徳)