フローレンス・ナイチンゲール

看護師、社会活動家

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フローレンス・ナイチンゲールの名言

フローレンス・ナイチンゲールの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 天使とは美しい花をまき散らすものではなく、苦悩するもののために戦うものである。

  • もし仮に、誰もその時あるものに不満を抱くことがなかったならば、世界がここまで良くなることはなかったでしょう。

  • 「正しいことがいつもなされるにはどうしたらよいか(自分で正しいことをするだけはなく)」。任務に就いたら、この簡単な質問をいつも頭に入れておきなさい。

    出典:  フローレンス・ナイチンゲール「Notes on Nursing for the Labouring Classes」

  • 他人への批判的な気持ちを和らげる最良の方法は、自分が批判している相手の役に立とうと努めることです。私自身の経験からそう申し上げることができます。

  • 人生はそれが続くうちに満喫しなさい。人生は素晴らしい贈り物です。そこにどうでもいいことなどありません。

  • 人間の値打ちはどの宗教を信じるかではなくて、ただその人の行いによって決まるのだ。

  • 人生でもっとも輝かしい時は、いわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来への完遂の展望がわき上がるのを感じたときだ。

  • 私の人生観は単純だ。すなわち目をそむけることなく人生と折り合っていくということだ。

  • 私たちは、自分が誉められるためにではなく、私たちが選んだこの仕事に名誉をもたらし、それを前進させるために、心を打ち込んで事を成し遂げていこうではありませんか。

  • 私はまだ自分が立派だとは思えません。私は熟練された看護師と呼ばれるに値するよう、生きています。

  • 人生は善悪の原理との厳しい戦い、もがき、格闘です。細かいやり方全てが議論の対象となります。

  • 物事を始めるチャンスを私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもあるのです。

  • 心に恐れを抱いていては、なんとささやかな行いしかできないことでしょう。

  • 情熱は川や海に似ている。浅いものはつぶやき、深いものは黙している。

  • 我々は、過去を知らないばかりに、自分の生きる時代を中傷する。人間はかれこれずっとこんな調子できたのである。

  • 自分の命より大切なものが多くなると、人間、気苦労が多くなる。

  • 女性よ、自立しなさい。自分の足で立ちなさい。

  • 人間の言葉のうちで「私は知りません」ほど情けない言葉はありません。

  • 歴史の目的は、過去の実例によって我々の願望や行動に道を示す知識を与えることにある。

  • 貧者が富者を嫉み、富者が貧者を怖れることは、永久に絶えないだろう。

  • 人生を二度、生きることが出来たらどんなにいいか。一度は過ちを犯すため、二度目は犯した過ちから学ぶために。

  • わたしであっても一つは得意だと思う能力は持っているものだ。この世界には100万以上の仕事があるといわれているが、そのどれもが自分が合わないなどということはあり得ないのである。

  • 人生を生きるには、修練が必要です。「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはなりません。

  • 明確な行動が伴っていなければ、思いを十分に伝えることは難しいと思う。

  • 死んだ女よりもっとかわいそうなのは忘れられた女です。

  • 人はその人が考えた通りの人生を生きる。

  • 自由に気付いていない時こそ、人間は一番自由である。

  • 人間は一生に一度きりではなく、一日ごとに気持ちを改めていかなければならない。

  • すべての物事は、それにつぎ込んだ努力にほぼ等しい成果があるものだ。

  • 自分に関わっている時間をどう使い、やりたいことを遂げるかは、すべてわたしにかかっている。

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フローレンス・ナイチンゲールについて

ナイチンゲールはクリミア戦争に従軍し、負傷兵の不衛生な治療状況の改善に貢献したことで名声を得た。看護師の専門教育の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設。同校は看護学校のモデルとなり、近代看護教育に貢献した。

1820年イギリスの富裕な地主の娘として産まれる。ナイチンゲールは語学・文学・数学・経済学・心理学など当時の女性としては非常に高度な教育を受け、母からは礼儀作法や音楽を教わり、社交界デビューも果たすなど富裕層の子女としての生活を送った。弱者を助けることに興味を持ったナイチンゲールは20代半ばで看護師を志すが、母や姉に大反対される。当時は在宅医療をするのが普通であり、病院は貧しい病人が滞在する施設にすぎず、看護師の地位は非常に低いものとされていた。それでも1851年、31歳の時、精神を病んだ姉の看護をするという口実で、ドイツのカイザースヴェルト学園の看護師訓練所で学ぶ。実践的な看護を学んだナイチンゲールはロンドンの病院の運営責任者として活躍するようになった。

1854年にクリミア戦争が勃発すると、負傷兵の治療の不衛生さが伝えられ社会問題となった。ナイチンゲールは政府の依頼で看護師やシスターなど38名を引き連れて戦地へ向かい、負傷兵の治療にあたり衛生状態を改善させた。その活躍ぶりから「クリミアの天使」と呼ばれ、その名は国民的英雄として一気に広まった。1860年クリミア戦争中に協力者たちが集めた基金4万5千ポンドを利用してロンドンにナイチンゲール看護学校を設立。同校を参考にイギリス各地に看護学校が建設され、看護師育成に貢献するとともに、看護師が専門知識を必要とする専門職だとの認識が広まり看護師の地位向上にも繋がった。1910年死去。享年90歳。