フローレンス・ナイチンゲール

看護師、社会活動家

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フローレンス・ナイチンゲールの名言

フローレンス・ナイチンゲールの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 心配、不安、待ち時間、憶測、不測の事態への恐怖は患者をどんな行為よりも痛めつけます。

  • 人生は全身全霊をかけた悪との厳しい戦い、もがき、格闘です。一歩道を進むごとに異議が唱えられます。夜は、深呼吸し、祈り、飲み、力を溢れさせるために与えられます。日中には、自らに与えられた強みを発揮し、夕方まで前向きに働くのです。

  • 治癒は自然そのままでも行われます。我々看護師がすべきことは、患者が自然に治癒するための状況を作ることです。

  • 看護師の実技演習でもっとも重要なことは、何を観察すべきかを教えることです。

    出典:  「Florence Nightingale on Public Health Care: Collected Works of Florence Nightingal」

  • 看護を辞めた後のことなど考えさせないでください・・・我々はそれを生涯にわたって学び続けなければならないのです。

  • 私はただ、神様に命じられたことをしていただけです。

  • 才能は長い努力の賜物である。

  • 無能な者は、どんな時代やどんな場所場所にも存在する。

  • 人間は、休息を取ろうとして疲労していく。

  • 病院の第一の条件は、患者に害を与えないことである。

  • 人生は呑気な楽しい休日でも、気の利いたことが記されている書物でもありません。

  • 子を失う親のような気持ちで、患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい。

  • 何かに対して「使命」を感じるとはどういうことであろうか?それは何が「正しく」何が「最善」であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら「指摘される」からするというのではない、ということではなかろうか。これが「熱中するということ」であり、自分の使命を全うするためには、誰もがもっていなければならないものなのである。

  • 看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。

  • 岸辺でぼんやりしているよりも、新しい世界への道を先導し、波の中で死になさい。

  • 経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。

    出典:  ナイチンゲール「看護覚え書」

  • 私はすべての病院がなくなることを願っています。

  • 私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない。

  • 諦めなどという言葉は私の辞書にはない

  • 将来のことを考えていると憂鬱になったので、そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。オレンジを刻んだり、床を磨いたりするうちに、気分が明るくなっていくのには全くびっくりする。

  • 看護は芸術である。そして芸術であるならば、画家や彫刻家と同様に徹底した献身と準備が求められる。

    出典:  「Florence Nightingale on Public Health Care: Collected Works of Florence Nightingale」

フローレンス・ナイチンゲールの名言を見ている方へお薦めする名言

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フローレンス・ナイチンゲールについて

ナイチンゲールはクリミア戦争に従軍し、負傷兵の不衛生な治療状況の改善に貢献したことで名声を得た。看護師の専門教育の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設。同校は看護学校のモデルとなり、近代看護教育に貢献した。

1820年イギリスの富裕な地主の娘として産まれる。ナイチンゲールは語学・文学・数学・経済学・心理学など当時の女性としては非常に高度な教育を受け、母からは礼儀作法や音楽を教わり、社交界デビューも果たすなど富裕層の子女としての生活を送った。弱者を助けることに興味を持ったナイチンゲールは20代半ばで看護師を志すが、母や姉に大反対される。当時は在宅医療をするのが普通であり、病院は貧しい病人が滞在する施設にすぎず、看護師の地位は非常に低いものとされていた。それでも1851年、31歳の時、精神を病んだ姉の看護をするという口実で、ドイツのカイザースヴェルト学園の看護師訓練所で学ぶ。実践的な看護を学んだナイチンゲールはロンドンの病院の運営責任者として活躍するようになった。

1854年にクリミア戦争が勃発すると、負傷兵の治療の不衛生さが伝えられ社会問題となった。ナイチンゲールは政府の依頼で看護師やシスターなど38名を引き連れて戦地へ向かい、負傷兵の治療にあたり衛生状態を改善させた。その活躍ぶりから「クリミアの天使」と呼ばれ、その名は国民的英雄として一気に広まった。1860年クリミア戦争中に協力者たちが集めた基金4万5千ポンドを利用してロンドンにナイチンゲール看護学校を設立。同校を参考にイギリス各地に看護学校が建設され、看護師育成に貢献するとともに、看護師が専門知識を必要とする専門職だとの認識が広まり看護師の地位向上にも繋がった。1910年死去。享年90歳。