山本五十六

日本海軍の軍人

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

山本五十六の名言

山本五十六の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 中才は肩書によって現はれ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。

  • 陸軍との争いを避けたいから同盟を結んだというが、内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい。

  • やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

  • 国大なりといえども闘いを好めば必ず亡ぶ。天下安しといえども戦いを忘なば必ず危ふし。

  • 苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。

  • 人は負い目を持っているからこそ進歩する。それを克服しようとして進歩するものなのだ。

  • 君は勤勉努力して産をなされたそうだが、国家人類の為、その財を善用して、始めて人としての意義がある。

  • 私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません。

    解説:  第二次大戦前、日米開戦後の見通しについて近衛文麿首相から質問された時の言葉。

  • 百兵を養うは、ただ平和を守るためである。

  • 真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。

  • 小敵たりとも侮らず、大敵たりとも恐れず。

  • 人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。

  • どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派にし遂げるだろう。

  • あと百日の間に、小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候。

  • 自らを処する厳、他を処する寛。

  • 天才よりも努力に依って鍛錬した入神の技術の方が遥かに勝っている。

  • 人は真剣になると、自然に口数が少なるなるものだ。

  • ああわれ何の面目ありて見逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし、いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を、華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ。

  • 人はみな、それぞれ与えられた天職がある。職分を如何に巧みに処理するかによって、その人の値打ちが決まる。

  • 勝つ時の来るのを、長時間、待って居る忍耐が大いに大切なのだ。

  • 取れぬ先の豊作などは、油断大敵。

  • 人生の窮極は真たるべく、之に達するは誠のみ。

  • 修養訓練、自戒自省という様なことを一生懸命に心がけるべき。

  • 三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。

  • デトロイトの自動車工業と、テキサスの油田を見ただけでも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日本の国力で到底やり抜けるものではない。

  • 男子には大目的を貫徹することが一番で、それ以外は枝葉末節だ。

  • 俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃあ、それでもいいよ。

  • 人は神ではない。誤りをするところに人間味がある。

  • 病気で寝ているとき、他人の親切が本当にわかる。その気持ちを大切にしろ。

  • 怜悧なる頭には閉じたる口あり。

山本五十六の名言を見ている方へお薦めする名言

山本五十六の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

山本五十六について

山本五十六は太平洋戦争当時の日本海軍の連合艦隊司令長官。アメリカ・ハワイの真珠湾攻撃で作戦を指揮したことで有名。アメリカに留学しハーバード大で学んだ知米派で、日独伊三国同盟に反対するなど、本人は対米戦争回避派であったとされる。

1884年(明治17年)現在の新潟県長岡市で旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として生まれた。1901年(明治34年)海軍軍人を目指し海軍兵学校に入校。1904年(明治37年)海軍兵学校を卒業し、日本海軍へと入隊する。1905年、装甲巡洋艦「日進」に配属され、当時進行中だった日露戦争の日本海海戦に参加する。そこで五十六は砲弾を受け、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部にも重症を負う。その後回復し、日本海軍の各艦で勤務しながら、、海軍砲術学校でも学んだ。1909年(明治42)日本海軍の命によりアメリカに留学する。1911年山本五十六は海軍砲術学校の海軍経理学校教官に任命された。

1913年(大正2年)両親が死去し、1915年(大正4年)旧長岡藩家老の名家、山本家を相続。改姓して山本五十六と名乗るようになる。1919年(大正8年)再びアメリカ留学を命ぜられ、山本五十六はハーバード大で学んだ。2年後の1921年(大正10年)に帰国し、軽巡洋艦「北上」副長、海軍大学校教官を命じられる。1925年(大正14年)武官として駐米大使館勤務を命じられ、再びアメリカに移る。1928年帰国し、軽巡洋艦「五十鈴」艦長。1929年、山本五十六は海軍少将に昇進し、ロンドン軍縮会議に参加。山本五十六は軍縮案に反対したが、日本は軍縮条約に調印した。その後は海軍航空本部技術部長、第一航空戦隊司令官を歴任し、1934年(昭和9年)第二次ロンドン海軍軍縮会議の海軍首席代表として交渉にあたり、山本五十六は政府の意向を受けて各国共通の兵力制限を主張。交渉は物別れに終わり、日本は条約に調印しなかった。1935年海軍航空本部長、翌1936年海軍次官に就任。日独伊三国同盟交渉では、米英との関係悪化が懸念されるとして山本五十六は同盟に反対したが、のちの1940年に同盟締結。1939年から連合艦隊司令長官に就任。1941年アメリカ・ハワイでの真珠湾攻撃を指揮し、アメリカの艦隊を撃退。アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊に戦闘能力を一時的に喪失させた。1943年ブーゲンビル島の前線を視察中に山本五十六の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、死亡。享年59歳。死後に国から大勲位、功一級、正三位、元帥の称号が与えられ、国葬が行われた。