岡倉天心

美術評論家、思想家

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岡倉天心の名言

岡倉天心の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 強力な思想というものは同時代の思想を論破するとともに、これに続く時代の動きを支配するものだ。

  • 自己の内側の大いなるものの小ささを感ずる事ができぬものは、他人の内側の小さなものの大いさを見逃しやすいものだ。

  • 人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きしたものとなるのだ。

  • おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大さを見のがしがちである。

  • われわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。

  • 永遠とは、物質ではなく、精神にしか見出すことのできないものであって、こうした簡素な建物はその精神のあらわれなのであり、そうであればこそ、洗練をきわめたほのかな輝きを帯びて、かくも美しいのだ。

  • 私たちの心は、芸術家によって彩られるカンバスであり、その絵の具となるのが私たちの感情で、明暗となるのが私たちの喜びの光であったり、悲しみの影であったりするのだ。傑作は私たち自身であり、私たち自身は傑作であるのだ。

  • 昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである。また、わざと愚か者のように語ることによって、聞く者に悟らせるようにしむけたりもした。

  • 奉仕は愛情の最高表現であり、愛は受けるよりも与えることを喜ぶ。

  • 見せびらかすのではなくて、ほのめかすといふこと、これが、無限なるものの秘訣なのだ。

  • 孔子は言っている、「人は隠したりするものだろうか」と。私たちには隠さねばならないような偉大なものなどないので、些細な事柄にも自分をあらわにしがちになるのだろう。

  • 教育とは、強固な幻想を維持するために一種の無知を奨励するものにほかならない。人は真に徳のある人間として教育されるのではなく、ただ、きまりに外れないよう振る舞うことを教えられるだけなのである。

  • 現代の芸術家は、技術に溺れるあまり、滅多に自身を超えるということがない。

  • 原始人は、思いを寄せる乙女に初めて花束を捧げた時、獣でなくなったのだ。自然界の粗野な本能性を脱して人間となったのである。無用なものの微妙な有用性を知った時、彼は芸術家となった。

  • 歴史の中に未来の秘密がある。我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。変化こそ唯一の永遠である。

  • 芸術が個人の心の表現でなければ、それは無である。

  • 物事のバランスを保ち、自分の位置は確保しながら他人にも譲るというのがこの世のドラマを成功させる秘訣なのだ。自分の役割を的確に演じるためにはドラマの全体を知っていなければならない。個人ということを考える時には、この全体のことを決して見失わないようにしなければいけないのだ。

  • 伝統や定式につき従っているだけでは、建築における個人性の表現に足かせをはめてしまうことになる。ギリシャ人が偉大であったのは、けっして昔に頼ろうとしなかったからだと言われているではないか。

  • 自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側であっても、共感を育むうえで致命的な障害となるのである。

  • 本当に重要なのは完成そのものではなく、完成することだ。

  • 偉大な思想で簡単に説くことのできるものなどありはしない。

  • ある時代なり流派なりの凡庸な産物をいくらたくさん集めるよりも、ただひとつの傑作に接する方がより多くのことを教えてくれる。

  • どんな木も、もともとその種に含まれた力以上に大きくなることはできない。生きるということは常に自分自身に立ち戻るということなのだ。

  • 内からの勝利か、さもなくば外からの圧倒的な死か。

  • 芸術は、その時代の暮らしにぴったりとしたものであって初めて本当に理解されるものなのだ。けっして後世の評価を無視してよいというわけではないが、それよりまず現在を十分に楽しまねばならない。

  • 私たちは大抵の場合、あまりにでしゃばり過ぎであり、いくらうぬぼれが強いといっても、これ以上自分を眺めて悦に入るというのは単調退屈でしかない。

  • 洋の東西を問わず、巨匠たちは、観客を自分の秘密にひきずりこむ手段として暗示の価値を忘れることはなかった。それに比べ、今日あふれている凡作のよそよそしいことはどうだ。傑作には、人の心の温かな流れが感じられるのに対して、凡作には、ただ、形ばかりの表現しか見当たらない。

  • 同時代の芸術こそは、真に私たちの芸術なのであり、私たち自身の反映なのだ。それを断罪することは、私たち自身を断罪することにほかならない。私たちは、今の時代には芸術が存在しないと嘆くが、そうだとすれば、その責任は誰にあるのか。

  • どの時代をとってみても、芸術が最終的に完成した型としてあらわれるというようなことはない。芸術とは絶えざる成長であり、年代ごとに区分できるようなものではないのだ。

  • 自分で偉大だとうぬぼれているものが実はちっぽけなものにすぎないことがわからない者は、ちっぽけと軽んじている他人のものが実は偉大なものであることを見過ごしがちである。

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岡倉天心について

岡倉天心は明治期の美術評論家、思想家で、文明開化が進む明治の日本で、東京美術学校長に就任し伝統を重視した美術教育を進めたこと、日本美術院を創設し新日本画運動を展開したことやアメリカのボストン美術館顧問を務めたことで知られる。また、中国やインドを旅し、独自のアジア観に基づいた文明評論を展開したことでも有名。代表作に「東洋の理想」、「日本の覚醒」、「茶の本」など。

1863年(文久2年)2月14日横浜市に生まれる。父・岡倉覚右衛門は福井藩出身の武士で、福井の特産品の商いをしていた。1870年(明治3年)、幼くして母・このを亡くす。1873年(明治6年)一家で東京に移り、岡倉天心は東京外国語学校に入学。1875年(明治8年)東京開成学校(現・東京大学)に入学し、文学、政治学、理財学などを学んだ。

1880年(明治13年)東京開成学校を卒業して文部省に入省。大学の師でもあるアーネスト・フェノロサの日本美術研究の通訳や助手として働く。その後、図画教育調査会委員、図画取調掛委員を務め、さらに欧米に美術と美術制度の調査に向かった。そして1887年(明治20年)に新設された東京美術学校(現・東京学芸大学)の幹事となり、1890年(明治23年)に岡倉天心は校長に昇格。日本において美術学校による美術教育を確立。校長在職中に「古社寺保存法」を制定し,美術雑誌「国華」を発刊した。1898年(明治32年)東京美術学校で起きた校長排斥運動により岡倉天心は校長を辞任。辞任後は新しい日本画を目指して橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山などとともに日本美術院を創設した。1903年「東洋の理想」、1904年「東洋の覚醒」を出版。1904年(明治37年)横山大観、菱田春草とともに渡米し、ボストン美術館で働く。1906年アメリカで「茶の本」を出版。1908年(明治41年)国画玉成会を結成。1912年に岡倉天心はインド、ヨーロッパ、アメリカへの旅に出ると旅の途中で病を患い、1913年に死去した。享年50歳。