小澤征爾

指揮者

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小澤征爾の名言

小澤征爾の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 日本製の地球儀を眺めると、日本が赤く塗られていますでしょ。世界全体から見ると、日本語圏はあれっぽっちです。そこだけの価値観で一生を過ごすのは、もったいないですよ。

  • 言葉ができないと不自由ばかりですけれど、一つよかったのは、海外で指揮する時に私は喋らないんです。喋れないから。言葉が堪能だと、説明しすぎてしまうでしょ。説明の多い指揮者はよくないんですよ。

  • テレビで見たり、インターネットで調べたりで世界を知った気持ちになってしまう。確かに私たちが若い頃よりもはるかに海の向こうの情報は入ります。でも、それは他の誰かの体験であって、自分自身の経験ではありません。

  • できる者ではなく、最低の者のレベルを上げることこそ教える者の技である。

  • 殻を破って外に出ようとするエネルギーそのものが大事なんだ。

  • 親の方が子供から得ることがよっぽど多いですよ。それと同じで、教えるということはとても勉強になる。

  • 本当の音楽をしていれば、絶対に報われないということはない。

  • 僕は「東洋人と西洋人は違う」ってはっきり言いました。だけど、どっかではつながっているんだと思う。世界共通、人間の感情は。

  • 音をただ並べるだけでは音楽にならないわけで、どうやって作曲家が紙に書いたものを音楽に戻すかと、ここのことですよね。

  • 音楽は10人いたらみんなそれぞれ違う。それが8人合ったら万々歳。みんな違うのに、わっと合う時がある。その時の嬉しさ。たまらない。全員が一緒になったら気持ち悪い。一緒じゃないからこそいい。

  • 技術の上手下手ではない。その心が人を打つ。

  • 「悲しい」 とか 「さびしい」、そういう言葉があるけど、音楽の場合は、作曲家が悲しいと書いても、どのぐらいまで悲しくやっていいかは、書いていないんですよ。そして、その悲しさの度合いは、人によって全然違う悲しさが、震えちゃうぐらい悲しいのか、それともさびしさが入っている悲しさなのか。あるいは、ほんとにもう悲しいのが中に入っちゃって外には出てこないのか、泣いちゃうぐらい悲しいのか……。その度合いの幅というのは、とても広い。そこで、それを決めていくためには、演奏家の判断が必要になってくるんです。 音楽の場合は、言葉で悲しいと書くよりも、それ以上にうんと幅が広いと思う。

  • これまで生きて、悲しみを味わった経験。悲しみは、人から教われないからね。自分でわかんなきゃ、わかんないわけだから。

  • 言葉よりも音楽の場合はね、本当にニュアンスの差がちょっとで違うから、幅というか高さなのか知らないけど、奥深いんですよ。それを指揮者の場合は、意識してやっておかないと、味が出ないっていうかね。

  • 言葉は全然違うけれども。あいうえおとABC、フランス語とドイツ語、イタリア語と日本語、韓国語と中国語では、全く違う感情があったり、悲しみがあったり、泣き方があったりするけれど、もっと底まで入ると、人間の共通面があると思うんです。言葉なんかを超えた、と信じているわけ、僕は。だからこうやって、指揮者をやっているんです。

  • 空港で若い日本人の姿を見ると、ちょっとがっかりさせられるの。私はいつも「外国を見たほうがいいよ」と言ってはいるけれど、1週間くらい観光して帰国するというのはねえ。できることなら、じっくりと勉強してほしい。まあ、1週間でも、行かないよりはましかもしれませんけれど。

  • 今は英語ができれば、世界中ほぼ通用するでしょ。ほんの少し前までは、フランスではフランス語、ドイツではドイツ語を喋れなくてはいけなかったけれど、今はパリやベルリンでも、みんな英語。

  • じっと楽譜を読み続けていると、ある時、頭の中で音が鳴り始めます。現代の作品であれ、中世の作品であれ、作曲家の頭の中で鳴っていた音楽が聴こえてくる。

  • 意外に多いですよ。両親に言われて音楽家になって、ずーっと勉強していて、ハッと気がついたら音楽が余り好きじゃなかったというような人が。

  • 私のオーディションでは音楽をやりたいという気持ちが一番大切ですね。ちゃんとした教育を受け、技術があり、そして音楽を作りたいという気持ちが強ければ、やり抜ける。

  • その場でふりかかってきたことを、精いっぱいやって、自分にできるかぎりのいい音楽をすることによって、いろんなことがなんとか運んできた。

  • 自分が年をとってきたからかもしれないけれど、大事なものとか美しいもの、美しいと言ってもただ見て美しいのではなくて、心に染みわたる美しさとか、心を打たれる美しさというのは、少し悲しみの味がするのよ。

  • 振り返ってみて、僕は本当に幸運だった。多くの師に恵まれて経験を重ねられた。

  • 日本人がどこまで西欧音楽を理解できるかという壮大な実験をしてきた。

  • 楽譜に書いてある通り、非常に几帳面にやって、規則に合ったことをやって、「はい、これで終わり」の演奏会をされたら、みんなバカバカしくなって、音楽会に来なくなっちゃいますよ。

  • オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトが書いているものは、その土地の、その人たちの悲しみとか喜び、幅広さとか、うれしさだけの意味で書いているとは僕には思えない。もっと高いところにあると思う号の芸術ってものは。

  • 東洋人でもモーツァルトを真のところでつかまえられると。ベートーベンも本当に真のところでつかまえられると。ドイツ語のアクセソトはつかないけれど、オーストリアのザルツブルクのアクセントはつかないけど、真のところではつかまえられると。それを再現できると、自分では思っているんです。

  • 音楽というのは、作曲家のものです。でも、五線譜に書いただけでは音にならないから、演奏者や指揮者がいるわけです。だから、指揮者は、作曲家がどんな気持ちで書いたのかを理解するために、じっと、深く、楽譜を読み続けます。

  • 飛び出さないと何も始まらないんです。

  • 集中力っていうのは、天才のものじゃないんだ。訓練だ。

小澤征爾の名言を見ている方へお薦めする名言

小澤征爾の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

小澤征爾について

小澤征爾は日本出身の指揮者。日本人のクラシック音楽家としては世界的に最も大きな成功を収めた人物。アメリカのボストン交響楽団の音楽監督を務め、ヨーロッパでもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などの有名オーケストラを定期的に指揮。ウィーン国立歌劇場の音楽監督も務めた。日本では新日本フィルハーモニー交響楽団を結成し、活動を行っている。

1935年(昭和10年)9月1日、当時日本領だった満洲国・奉天市(現在の中国・瀋陽市)に生まれる。父・小澤開作は歯科医で、満州国協和会に所属し政治運動も行っていた。1941年(昭和16年)東京都立川市に転居。成城学園中学校から成城学園高校に進む。その後音楽家の齋藤秀雄が音楽教育のために設立した男女共学の桐朋女子高校音楽科に転入。大学は齋藤秀雄の教えを受けるため桐朋学園短期大学に進んだ。卒業後に小澤征爾は群馬交響楽団で指揮者を務めた。1959年(昭和34年)単身フランスに渡る。フランスではブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、数々のヨーロッパのオーケストラで指揮を執るようになる。さらにカラヤン指揮者コンクールでも優勝し、世界的な指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに教えを受ける。1960年(昭和35年)アメリカのバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞。1961年(昭和36年)小澤征爾はニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任し、指揮者のレナード・バーンスタインに師事する。

1972年文化放送とフジテレビが運営していた日本フィルハーモニー交響楽団が運営難により解散されると、小澤征爾は作曲家の山本直純らとともに新日本フィルハーモニー交響楽団を設立。1964年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任。1973年、小澤征爾はアメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督就任。ストン交響楽団の音楽監督は2002年まで30年近く続けた。1998年に開催された長野オリンピックの音楽監督を務めた。2002年世界的に有名なクラッシックコンサートであるウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。日本人としては初めての指揮で、アジア人としてもインド人のズービン・メータに続く二人目の快挙だった。2008年文化勲章を受章。