成功するとそこに安住する人がいるけど、それじゃ面白くない。
田原総一朗 ジャーナリスト
この名言を見ている方にお薦めの名言
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努力しない人も平等になどと、そんなバカなことはありません。それこそ不平等です。努力した人もしない人も同じ収入で、同じ家に住んで、同じ洋服を着て、同じ食べ物を食べる。それでは正直者がバカを見ます。うらやましいのだったら、妬ましいのだったら、自分もそれ以上に努力すれば報われるのです。
美輪明宏 歌手、俳優、タレント
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女優になるのを夢見るほうが、女優をやるよりずっとエキサイティングよ。
マリリン・モンロー 映画女優、歌手
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言い訳を言う人間のもとにはツキというか、運は回ってこないんだ。鹿児島弁で「議」というらしいが、議を言えば余計に勝てなくなるんだよ。
野村克也 プロ野球選手、監督
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日本は、ベスト8、ベスト4に進むべき絶好の機会を逃した。日本のサッカーが新たな一歩どころか2キロほど先にまで進むチャンスを自ら放棄したのだ。日本は、リスクを冒す準備を怠っていたと言わざるをえない。
イビチャ・オシム サッカー監督
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努力しない人も平等になどと、そんなバカなことはありません。それこそ不平等です。努力した人もしない人も同じ収入で、同じ家に住んで、同じ洋服を着て、同じ食べ物を食べる。それでは正直者がバカを見ます。うらやましいのだったら、妬ましいのだったら、自分もそれ以上に努力すれば報われるのです。
美輪明宏 歌手、俳優、タレント
田原総一朗の他の名言
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技術が進めば進むほど、実は人間とは何かという永遠の命題が突きつけられるんだね。
田原総一朗
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オンラインの情報が増えたからこそ、オフラインの重要性も増しています。今年、オバマ大統領が広島に来て、原爆被爆者の背中をさすりましたね。いくら技術が発達しても、オンラインでは背中に触れない。そこは忘れてはいけない。
田原総一朗
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僕が小5の夏休みに玉音放送がありました。1学期まで先生は「この戦争は米英に植民地化されたアジアの国々を解放する正しい戦争だ」と教えてきました。しかし、2学期になったら同じ先生が「あの戦争は悪い戦争」と言う。ラジオや新聞も同じで、態度がl80度変わった。その様子を見て、国は国民を騙すことがあるし、マスコミも信用できないと思いました。マスコミが本当のことを伝えなかったのは、言論の自由がなかったから。だから僕は体を張って言論の自由を守りたい。かつて評論家の山本七平さんは「日本は空気の国。空気を乱すと弾かれる」と言いました。僕は生きている限り、空気を乱し続けていこうと思っています。
田原総一朗
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僕は若いころに編集者から「日本は一穴主義だ」といわれたことがあるの。夫婦関係もそうだけど、政治なら政治、歴史なら歴史をずっと専門でやってきた人間が偉いと見なされるというんだね。「だから田原さんも偉くなりたければ、専門を絞ったほうがいいですよ」とその人からはいわれたけど、僕はそんなのはつまんないと思った。だからいつも、そのとき一番興味があることをテーマとして選んで仕事に取り組んできた。世の中では、僕のことを政治評論家だと思っている人も多いみたいだけど、あんなのはたくさんやっている仕事のうちのひとつだからね。でも一穴主義に縛られなかったからこそ、「田原はおもしろい。人と違うことをいう」ってことで評価されてきたんだと思う。
田原総一朗
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気持ちを絞り込む必要はない。チャンスがあればいつでもやってやるという気持ちを大事にすべき。
田原総一朗
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同じ波が目の前で起きているのに、それに乗れる人と乗れない人がいる。年寄りは後者。既存の日本企業の業績が良くないのも、トップが50~60代だから。新しいものに対する感度が落ちているから、波が来ていても肌で理解できないんです。
田原総一朗
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僕は新聞を6紙とっていますが、情報を集めるためではありません。むしろ、疑問を持つために新聞を読んでいるのです。6紙に目を通すと、同じニュースでも書いてあることが違う。さらにネットも加えると、みんなバラバラ。ということは、どこかが間違えていたり嘘をついていることになる。そうやって疑問を持つことが、真実に近づく第一歩。
田原総一朗
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大切なのは、自分の感性に素直になること。視野を広げるとかにこだわらず、心のままにものを見ればいい。
田原総一朗
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世は移ろう。だからこそ僕らは、より良き方向に変えていかなくちゃいけない。「くじけてなるものか!」と。
田原総一朗
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私が小学校5年生の夏休みに日本が戦争に負けたんですが、小学校では一学期には聖戦、正義の戦争と教えていた。「アジアを解放する戦争」だと。それが夏休みに戦争が終わって二学期になると、間違った戦争、侵略戦争と言われるようになって、どうも世の中の人の言うことが信用できないと思った。そういう気持ちがあって、世の中の常識、それを自分で探っていく、そういう仕事がしたいという気持ちがあった。
田原総一朗