蛭子能収

漫画家、タレント

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蛭子能収の名言

蛭子能収の過去の名言をまとめた名言集です。

  • オレの漫画はそんなに上手ではないし、人前で話しても面白いことが言えるわけじゃありません。ただ、昔から変わらず「なんとか人に喜んでもらいたい」という気持ちだけは忘れなかったつもりです。いま、俺に仕事を持ってきてくれる人がいるのも、この気持ちがあるからではないかと思っています。

  • 夢は願えば叶います。俺はこんなに絵が下手なのに漫画家になれました。

  • 友達がいなくたって、自分が本当にやりたいことが見つかれば絶対に楽しくなってきますから。頑張ってもうまくいかないこともあるでしょうが、一生懸命やってダメなら一つ下の目標に落として、また頑張ればいいじゃないですか。

  • 僕はお金がある人が勝者だという考え。ないよりはあった方が幸せになれる。

  • 人生で一番大事なことは、自分で自由に考えて、その思いを行動に移すことなんじゃないでしょうか。

  • 見栄を捨てれば、生きる方法はいくらでもある。少し見方を変えれば、人生で思い悩むことは少なくなる。

  • 僕は自信をもたないようにしていますけど、一方で失いたくない核のようなものがあって、それが何かといったら、「漫画」なんです。漫画家になることが僕にとっては何よりの夢だったし、それが自分のいちばん好きなことで、やりたいことだからです。

  • 「任侠野郎」という映画で主演したんですが、僕の演技は、元ヤクザの役なのに何の迫力も無いんです。自分の演技に自信をもっていたら、恥ずかしくて外を出歩けなかったかもしれません。最初から演技の才能は無いと思っていれば、落ち込むこともない。自信は無いほうが良いときもあるんです。

  • 本音で言うと、1人になりたいと思うときってありませんか?本当に自由にできたら、正直なところ1人でいたいという人も結構いるんじゃないかな。

  • プライドを持っている人は、かっこいいと思いますよ。ただ、プライドを高く持ちすぎていると、それをへし折られた時、ショックがものすごく大きい。自分をよく見せようとカッコつけるのも同じで、背伸びすればするほど、失敗した時に受けるダメージが大きい。

  • 人間って誰かを幸せにしたり喜ばせるために生まれてくると思ってるんですよ。一番身近な誰かって、結局は家族でしょう。女房は俺を幸せにするために生まれてきた。そして俺は女房を喜ばせるのが運命だった。そういうことではないですかね。

  • 仕事はお金を得るためにしょうがなく働くもので、楽しく働くなんて、信じられんです。お金を貰えるから、上司のいうことをハイハイ聞いて、苦しいこともやるわけで。退社時間になって、やっと奴隷から解放されるのですから、そこからまた、しかも割り勘で飲みに行くなんて、考えられない。

  • いまの日本では、子どものときから友達は多いほうがいいと学校で教える風潮がありますが、本当にそれでいいのですかね。友達が多い=人間の魅力があるみたいに評価されているじゃないですか。だから仲間はずれにされることを極端に怖がり、仲間はずれが有効ないじめとして成立してしまう。私は友達が大勢いることがいいとは思いません。

  • 僕は人から嫌われていると思ったことがない。だって人に迷惑をかけることをしていないもの。そう胸を張っていればいい。

  • 若い人には言いたい。「自分を選べ!」と。いろんな人に気をつかわないで、自分の好きなことに向かって行動することのほうが幸せですから。たとえ残酷でも、「人のために生きるんじゃなくて、自分のために生きろ」と。

  • 好きなことしなかったら、生きている意味なんてないじゃないですか。

  • たぶん、頼みやすいからテレビの仕事が来るんだと思います。そしてこれまでずっと、人から何かを頼まれたときに、むげに断らず引き受けてきました。「それ、じゃあ、やります」と何でも引き受けてきたのがよかったのかもしれません。

  • 人が死ぬと楽しい。ついおかしくて笑ってしまう。

  • 夢だった漫画家としての仕事はともかく、食べるためにやってきたいろいろな仕事については、いいことなんかひとつもありませんよ。仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い。働くことに意欲を求めるのがおかしいんです。仕事で輝くという人生は変。人は、競艇場で輝くために働くんです。

  • 最初は友達だったのに仲間割れしていく。だって人の考えなんてそれぞれだからね。それを無理やりまとめていこうとすると、最悪の場合殺人に行き着くことさえある。

  • 「スーパーJOCKEY」の熱湯風呂は、1回分のギャラが当時の給料の1か月分。1か月働いてやっと稼ぐような金額を、1日というか半日で稼げてそれが1日2回録りってこともある。こんな労働があるのかってすごくびっくりしましたよ。

  • 妻を亡くした時は競艇に行ってもなんか楽しくなかったんですよね。

  • もし誰かに「お前は負け組だ」と言われたとしても、「ああ、いま俺は負けているのか」くらいの軽い気持ちで考えていればいいんじゃないでしょうか。万が一にも、落ち込む必要なんてまったくありません。所詮、勝ち負けなんてものは、そのときだけのもの。今日ツイてるからといって、明日もツイてるとは限らない。むしろ勝っているときこそ危ないというのは、ギャンブルの定説です。

  • アシスタントはつけません。もしアシスタントがいたら、命令されそうな気がするんですよ。こうしたほうがいいとか言われて、その通りにしちゃう。自分で好きなように書きたいから、一人です。

  • 夢と言うのは、好きなことをして、サラリーマンと同じお金をもらった時に叶ったと言えます。

  • ネット上で誰かの悪口を書く暇があれば、小説でも書いて怒りを形にすれば良いんじゃないか、って思います。オレは会社での怒りをマンガにぶつけたから、おもしろいものが描けたと思ってる。

  • 僕は絶対に人に反発しないし、相手の言うことも聞きます。そんな中で自分のやりたいことも、何となく表明したりする。そうすると助けてくれる人がいて、夢の実現につながっていく。ずっとそうやってきた気がします。

  • しょせん漫画の中ですから、漫画のなかだったら自由に人が殺せるんですよ。

  • 夢を追いかけ続けるのはいい。でも、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメだ。要は、衣食足りてこその夢の追求なのだ。実際、オレはそうやってここまできたが、オレにとっては家族が人生最大の喜びだったから辛くなかったし、働きながら夢を追いかけるオレのことを、家族も応援してくれた。仕事が苦痛で、毎日がつまらないと感じていても、「お金のため」と割り切れば、そんな悩みは半減するはずだ。

  • この世にはありとあらゆる職業があって、誰かしらがそれをこなしているわけだから、仕事に上下の差をつけるという考えが間違っているのだ。人に必要とされるものに差別があってはならないとオレは思う。

蛭子能収について

蛭子能収(エビス・ヨシカズ)は、長崎県出身の漫画家、タレント。ヘタウマ系の独特な画風で、奇抜な不条理系のギャグ漫画を執筆し、漫画誌「ガロ」などで活躍。その後、劇団東京乾電池の舞台への出演をきっかけとしてタレントとしても活躍。温和な見た目でありながらクズキャラというギャップがウケて、多数のテレビ番組に出演。特にレギュラー出演したテレビ東京「ローカル路線バスの旅」では、マイペースな行動、奇抜な言動、ゲストへの毒舌などで番組を盛り上げ、「ローカル路線バスの旅」は人気番組となった。

1947年(昭和22年)10月21日、熊本県牛深市(現・天草市)に生まれる。幼少の頃に長崎県長崎市に引っ越す。長崎市立長崎商業高校卒業後、看板屋で4年ほど働いた後に上京。上京後も看板屋として働く一方で、漫画を執筆しては出版社に持ち込んでいた。そんな中、蛭子能収は青林堂の漫画雑誌「月刊漫画ガロ」の編集者に見いだされ、ガロの1973年8月号で漫画家デビュー。デビュー作のタイトルは「パチンコ」だった。しかしながら、漫画家としてはほとんど注目されず、結婚もしたため金銭的に困窮。セールスマンの仕事をしながら漫画を執筆したが、一時期は生活保護を受給していたという。そんな中でも蛭子能収はカルト系自販機雑誌や官能劇画誌にも進出し、漫画を描き続けた。

1980年代後半になると、劇団東京乾電池からポスターの制作依頼を受けたのがきっかけで俳優の柄本明と知り合い、柄本のオファーで劇団東京乾電池の公演「台所の灯」に出演。さらにこの公園を見ていたフジテレビのプロデューサー・横澤彪から「笑っていいとも!」への出演を依頼され、「笑っていいとも」のレギュラーとなる。蛭子能収のほんわかした見た目と毒舌を吐くクズキャラは異彩を放ち、多数のテレビ番組に出演するようになった。特に2007年から10年間出演した「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」では、共演者の俳優・太川陽介をマイペースな蛭子能収が振り回す様子が人気となった。また、テレビ出演の一方で精力的に漫画も執筆。商業的な成功には至らなかったが、独特のダークな世界観を多く残した。

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