手塚治虫

漫画家

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手塚治虫の名言

手塚治虫の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。

  • 歴史とはあらゆる角度からあらゆる人間の側から調べなければ、ほんとのことはわからないものなのである。

  • 「ダメな子」とか、「悪い子」なんて子供は、一人だっていないのです。もし、そんなレッテルの付いた子供がいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない、大人たちの精神が貧しいのだ。

    出典:  手塚治虫「ガラスの地球を救え」

  • 幼い子供が怒られるようなことをしでかした場合、それが不器用なための過ちなのか、未知への探求欲のためなのか、破壊本能のためなのか、完全な悪意によるものなのか、大人は知る必要がある。

  • ぼくは人のやらないことを、やりたがる欲があるんです。そして人にマネさせるのが楽しい。

  • ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。

  • 医者は生活の安定を約束していた。しかし、僕は画が描きたかったのだ。

  • 好奇心というのは道草でもあるわけです。確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。

  • 一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、俺のマンガ映画を作って、この感激を子どもたちに伝えてやる。

  • 今世紀の芸術作品といわれるものは、たいてい圧政や迫害の中から、レジスタンスとして生まれてくる。

  • オヤジの役目というのは、その生きざまを子供に見せてやることだと思う。子供がオヤジの行動に感動すれば尊敬するだろうし、尊敬しないまでも条件反射的に、その行動をなぞっていくものだろうと思う。

  • 僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。

  • 反戦だの平和だのの政治的なお題目では、子供はついてこない。率先して生命の尊厳から教えていく姿勢が大事。

  • 強いということは、戦いに勝つことだけじゃない。

  • 締切りなしの作業なら思い切り楽しい仕事になるだろうが、おそらくまったく進行しないに違いない。

  • 「荒唐無稽」とか「夢の中」にこそ、日本人の忘れていたものがある。

  • 経営者としては、確かに負けたかもしれない。でもマンガ家としては、何も失っていない。

  • ぼくは読者の人気投票に怯えてるんです。ベスト10、というよりベスト3に入ってなきゃならないんです。でないと仕事にも、それにプライドにも関係してくるわけでね。

  • 自然や人間性を置き忘れて、ひたすら進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくか。

  • 送り手によって都合のいいように、情報は歪められ得る。

  • 空想だけは、空腹や金と無関係にできる、唯一のものだった。

  • 人を信じよ。しかしその百倍も自らを信じよ。

  • 漫画とは大人が眉をひそめるようなものでないといけないんです。

  • 三十年たって振り返りもされない建築はまずいと思うんです。漫画だって三十年たっても読まれなけりゃ本物じゃないと思ってるんです。

  • プロというのは、何も無いところから出さなきゃダメだ。引き出しを開けたら何もなくても、締切りは迫っている。そこで、無から有を生ずるのがプロですよ。

  • ぼくのマンガというのは教科書なんですよ。教科書というのは、読んでワクワクするほど面白いもんじゃないし、面白すぎても困るわけ。若い連中がそれに肉付けして、素晴らしい作品を作ってくれることが望ましい。

  • ぼくがはっきり胸を張って、創造したといえるのは、マンガに悲劇の要素を持ってきたということ。

  • ぼくという男は、感動した映画なり小説なりを、恥も外聞もなく自作に組み込んでしまう、悪いクセがある。

  • 人間がどのように進化しようと、文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはない。

  • 人間は、果てしなく賢明で、底しれず愚かだ。この壊れやすい地球に対してどう対処するのかは、ここ百年くらいで選択が決まる。でもこれは、やり直しのきかない、一度限りの選択になるだろう。

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手塚治虫について

手塚治虫は戦後に隆盛した日本漫画の第一人者。「漫画の神様」とも呼ばれる。代表作は「鉄腕アトム」、「ブラックジャック」、「ジャングル大帝」、「火の鳥」など。

1928年(昭和3年)大阪府豊中市生まれ。幼少期は漫画とアニメーションに親しむとともに、昆虫が大好きな少年だったという。医学の道を志し、1945年(昭和20年)大阪大学医学専門部に入学。在学中に漫画家としての活動を始め、1950年(昭和25年)に手塚治虫は「ジャングル大帝」の連載を開始している。1951年(昭和26年)大阪大学医学専門部卒業。翌年医師免許を取得。1953年(昭和28年)学童社の漫画雑誌編集者に紹介されてトキワ荘へと引っ越す。以降、学童社の紹介で漫画家が次々にトキワ荘へと引っ越した。後に手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが売れっ子になったことで、有名漫画家が多く住んだアパートとしてトキワ荘の名が知られるようになる。

手塚治虫の漫画はすぐに受け入れられ、1954年26歳で関西長者番付画家の部でトップとなり、トキワ荘からも引っ越した。1963年(昭和38年)テレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始。鉄腕アトムは最高視聴率40.7%を記録するなど大人気となる。以降1989年(平成元年)に亡くなるまで精力的な創作活動を続け、手塚治虫が発表した漫画作品は600作品を超えている。享年60歳。