手塚治虫

漫画家

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手塚治虫の名言

手塚治虫の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 家庭の温かな雰囲気は敏感に作品に出るものだ。家庭が暗いと楽しいものが描けないし、作品が荒れる。

  • 本当の「ストーリー」というのは、ドラマの起伏とその中の、人生観が描かれてなければならない。

  • バリエーションとしてのマンガは、その時その時の花みたいなもので、どんどん咲き代わっていく。しかし、樹そのものは枯れません。

  • 図形だと思うんです。絵じゃないんだとね。マンガは象形文字に類する記号だと確信した途端、様々な疑問がすべて解けた。

  • 僕は昔、一年に三百六十五本、映画を観ることに決めていた。

  • 円周率とか1、2、3、というのは、地球だけの真理であって、宇宙にはそれとは違う、まるっきり想像を絶した、知識の体系があるかもしれない。

  • 子供は、大人の真剣なメッセージを待っているし、また十分に受け止める感受性もあります。

  • これでどうだ」って意識的にやっちゃうと、もう絶対に当たらないですね。

  • 後世に残る作品をなどと気張らず、百歳まで描きたい。

  • 数え切れないほど、悔しい思いをしてきたけれど、その度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。

  • 僕は画を描いているんじゃなくて、ある特殊な文字で話を書いているんじゃないかという気がする。

  • 「変形・省略・誇張」という3つが、落書きの要素であると同時に、マンガの要素である。

  • ぼくがマンガを見て美しいと思う要素の中に、空白の美しさというものがある。

  • 自分の家のすぐそばにある原っぱでくり広げられる小さな地獄の数々は、それでもタフに生き抜くことの喜びを教えてくれました。

  • 生活とか生存に困難な場所に生きる生物ほど、生活力・繁殖力への渇望が強くなる。人類の存亡が問われるような時、大変な数の人間が、超能力を発揮できるんじゃないか。

  • もし火星とか木星あたりに生物がいることがわかった時にそこでひとつの生命体同士の連帯感みたいなものが、地球人に生まれてくるんじゃないか。

  • となりの部屋へ行くんだ。仕事をする。仕事をさせてくれ。

  • 我々はこの膨大な情報量を、全部飲み込むのではなく、どれが自分に必要かを判断する、テクニックを身につけなければならない。

  • 少なくとも僕にとっては偉大であり、誇るべき人であり、世の数億の女性とは、別格の人なのである。

  • 自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しが来る。

  • 駆け出しのマンガ家は、絵も拙く、表現も生硬だが、感覚だけは強烈な武器となる。

  • 子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子どもが正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。

手塚治虫の名言を見ている方へお薦めする名言

手塚治虫の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

手塚治虫について

手塚治虫は戦後に隆盛した日本漫画の第一人者。「漫画の神様」とも呼ばれる。代表作は「鉄腕アトム」、「ブラックジャック」、「ジャングル大帝」、「火の鳥」など。

1928年(昭和3年)大阪府豊中市生まれ。幼少期は漫画とアニメーションに親しむとともに、昆虫が大好きな少年だったという。医学の道を志し、1945年(昭和20年)大阪大学医学専門部に入学。在学中に漫画家としての活動を始め、1950年(昭和25年)に手塚治虫は「ジャングル大帝」の連載を開始している。1951年(昭和26年)大阪大学医学専門部卒業。翌年医師免許を取得。1953年(昭和28年)学童社の漫画雑誌編集者に紹介されてトキワ荘へと引っ越す。以降、学童社の紹介で漫画家が次々にトキワ荘へと引っ越した。後に手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが売れっ子になったことで、有名漫画家が多く住んだアパートとしてトキワ荘の名が知られるようになる。

手塚治虫の漫画はすぐに受け入れられ、1954年26歳で関西長者番付画家の部でトップとなり、トキワ荘からも引っ越した。1963年(昭和38年)テレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始。鉄腕アトムは最高視聴率40.7%を記録するなど大人気となる。以降1989年(平成元年)に亡くなるまで精力的な創作活動を続け、手塚治虫が発表した漫画作品は600作品を超えている。享年60歳。