田中角栄

第64代、第65代内閣総理大臣

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田中角栄の名言

田中角栄の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 評論家は政治家の悪口を言うのが商売。政治家は評論家に悪口を言われるのが商売。

  • 政治家、リーダーというものは、最後は51%は公に奉ずるべき、私情は49%に止めておくべきだ。公六分で決断した場合、仮に失敗しても逆風をかわすことができる。私情優先では、同情の生まれる余地はない。

  • 人間は休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むか。私は一貫して後者だった。

  • 議員は一人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員一人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります。

  • 医者だって、ノミのキンタマばかり研究しおって医学博士になっても一人前とは言えん。全てのものを総合的に判断できて、正しい処方箋とならなきゃだめだ。

  • 大学の教授より、むしろ小学生の先生を大事にしなければいけない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから。

  • 念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。

  • 一言で言うと、私は経済界の出身であり、政治に支障のない限り経済活動をしてきた。記事で個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない。米国だけでなく、政治家が国民の支持と理解を得るためには、プライバシーの問題をある意味で制限されることは承知している。

  • 朝から晩まで議員辞職、ロッキード、ロッキード、馬鹿者だな。

  • 世の中で1番勉強してるのは誰だ、田中角栄である事を認識せよ。

  • 皆さん共に政治の先頭に立って全力を尽くして参りたいと考えているのであります。

  • 休まなきゃならんけどね、働いてから休め。それからいい時ばっかりじゃないから悪い時は、家。

  • いいかお前、日本で起きる全ての事はこの目白で決めるんだ。

  • メシ時になったら、しっかりメシを食え。シャバにはいいことは少ない。いやなことばっかりだ。それを苦にしてメシが食えないようではダメだ。腹が減って、目が回って、大事な戦はできん。

  • 私は役人は怖くねーが、あんたら地元の人が一番怖い。

  • いいですか、一軒の家でも財布が親父から息子に移ると、やり方も変わってくるんだよ。

  • 政治家もそうだが、人間は地が大事。変なものにウエイトを置きすぎると、かえって人生うまくいかない場合もある。

  • トラブルは必ず解決しろ。次のように行動しなさい。1.100万円使ってトラブルを解決すること。2.100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。3.残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4.これらの金は全て返却は無用である。こんなことで影響をうけたりしないだろう?お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ。

  • 人間は木の股から生まれてくるのではない。人には歴史がある。

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田中角栄の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

田中角栄について

田中角栄は昭和の政治家。第64代、第65代日本国内閣総理大臣。鉄道、道路など地方への積極的な公共投資で地方の工業化を推進するとの「日本列島改造論」を主張。総理大臣時代はは日中国交正常化などを成し遂げる一方、その金権政治が批判を浴び、田中金脈問題で辞任。のちにロッキード事件で起訴された。

1918年(大正7年)新潟県生まれ。実家は農家で、小学校卒業後すぐに土木工事の現場で働き、16歳で上京。1937年独立し、建築事務所「共栄建築事務所」を設立(のちに田中土建工業に改組)。田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男に政界入りを勧められた田中角栄は1946年、進歩党から衆議院選挙に出馬するが、落選した。翌年、日本国憲法下で最初の総選挙が行われ、田中角栄は進歩党が改組した民主党から立候補し当選。

1957年、田中角栄は30歳の若さで郵政大臣に就任すると、自民党政務調査会長、大蔵大臣、自民党幹事長、通産大臣と要職を歴任。1972年自民党総裁選で「日本列島改造論」を掲げ福田赳夫を破り、田中角栄は第64代総理大臣に指名された。在任中は日中国交正常化を達成する一方、拡大的な財政政策から地価や物価が急上昇し社会問題となった。1974年田中角栄のファミリー企業の土地取引に絡む疑惑「田中金脈問題」を追及され辞任。1976年アメリカ・ロッキード社の航空機に関わるリベート疑惑「ロッキード事件」が浮上。田中角栄は5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反で逮捕され、自民党を離党。1993年死去し、ロッキード事件では判決が下されないまま公訴棄却となった。