吉田茂
内閣総理大臣
吉田茂の名言
吉田茂の過去の名言をまとめた名言集です。
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権力に左右されるような政治家は、また別の権力が現れた場合には、意気地なくこれになびくものだ。
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地下資源に恵まれない日本が繁栄するには、まず自分の国を愛する愛国心を失ってはいけない。それには世界諸国の理解を深め、仲良くお付き合いする国際心が無ければならない。
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君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、チヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。
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私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官など、とても務まりません。
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言うべきことは言うが、あとは潔く従う。
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歴史書を読むといい。歴史書を読むと、人の行動がよく読める。なにが変わって、なにが変わっていないかよくわかるから。
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忍耐がどんな難問にも解決策になる。
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だいたい、君たちとは食べ物が違うんだよ。それは君、人を食っているのさ。
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大志を抱けば、天下何ものか恐るるにたらず。
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戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。
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戦前にわが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、もし完備していたら、勝っていたかもしれない。
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明治維新当時の先輩政治家たちは、国歩艱難裡に国政に当り、よく興国の大業を成し遂げたのであるが、その苦心経営の跡は、今日よりこれを顧みるに歴々たるものがある。
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三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は生き続ける。
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今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。
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いつまでも外国によってその安全を守ることは国民のプライドが許さない。
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もし日本の統計が正確であったら無茶な戦争など致しません。また統計通りだったら日本の勝ち戦だったはずです。
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戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。
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忙しいと疲れたは、自慢にならん。
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これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく。
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負けっぷりは立派にしようというのが、私の総司令部に対する一貫した考え方だったのである。
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僕もこれだけやってきたら天国へ行けるだろう。しかし仏教のためにも多少努力したから、阿弥陀様が極楽へ来いと言われるかもしれない。皇学館大学にも関係しているので、やおよろずの神々が高天原へご招待下さるかもしれない。だが、天国や極楽や高天原は案外つまらんかもしれないね。長年付き合った友人はみな悪人どもだから彼らは地獄におるはずなんで、私一人天国では退屈するに違いない。どうも地獄の方が面白そうじゃないか。
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天災の多い国においては、国民食糧は相当の余剰を持って置くことが、日本の食生活の上、国民生活の上において安全である。
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大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます。
吉田茂の名言を見ている方へお薦めする名言
吉田茂の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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あたしロマン派だから。猫の名前もゲーテとシューマンだし。
椎名林檎 歌手
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我々は強者が道徳上の良心によって弱められ、弱者が厚かましさによって強くなるという素晴らしい時代に生きている。
オットー・フォン・ビスマルク プロイセン王国首相、ドイツ帝国首相
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安易にリストラをするような経営よりも、従業員の雇用を尊重する経営のほうが人間を幸せにできると思う。これからは「人間の顔をした市場経済」に向かって全世界が動いていくと、そういう時代だろう。
奥田碩 元トヨタ自動車社長
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インターネットは自らが理解不能なものを人類が作り上げた初めての事例です。人類がこれまで経験したなかで最大の無秩序の中で行われる実験なのです。
エリック・シュミット 元GoogleCEO
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私は天体の動きを計算することはできるが、民衆の狂気は計算できない。
ニュートン 物理学者、数学者、天文学者
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政治とは理性ではない。雄弁でもない。政治とは力である。炎のような、つまり、危険な使用人であり、恐ろしい主人である。
ジョージ・ワシントン アメリカ合衆国初代大統領
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俺が死んだら日本は退屈になるぞ。
石原慎太郎 作家、政治家
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弱い女性を守ることで自分の強さを感じたいって男がいたら、そいつはつまんないヤツだと思うよ。
木村拓哉 俳優、タレント
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新しいモデルというものは、案外、理解できないんものなんです。ガリレオの地動説を世間が受け入れたのは、ガリレオより上の世代が全員死んだときです。全員が死んだときに、一瞬にして当たり前のように、地球は回っているということになった。そういうものなんです。
猪子寿之 チームラボ創業者
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私は、自分たちが経験した苦い思いを教訓にして、日本を変えるきっかけをつくりたい。そうじゃなかったら、自分たちが必死にやってきた努力は報われないですよ。私は官僚主義的な、供給者主体の社会構造に対して、ものすごく嫌悪感があるんです。
松井道夫 元松井証券社長
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日本は、物質主義に毒されてきた。それは反省しなければいけない。しかし、正直言って、日本の経済や政治のあり方というものに私はあまり関心がない。人間の作っている社会はシステムには関心がない。もっぱら、人間そのものに関心を持っているのです
井深大 ソニー創業者
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「富士山に登った」と言う人は多いけれど、たいていは5合目辺りまで車などで行き、そこからスタートして登ったと言っているわけです。でも、本当に標高3776メートルの富士山を登り切ったと言うなら、僕は駿河湾から歩き出すのが本筋だと思う。つまり、いつの間にか5合目スタートが常識になってしまっているわけです。物事には「そもそも」という根本があります。根本が進化し、社会基盤になり、常識になっていく。5合目が常識になってしまうと、人はこの「そもそも」の部分、根本を考えなくなる。それが僕は怖い。
倉本聰 脚本家
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西洋の人の言った言葉があります。「世の人すべてが自分の生活に満足して、そこに安住するならば、今日の世界は、天地創造のときの世界と異なることがないだろう」と。この言葉は、まことにその通りです。
福沢諭吉 思想家、教育家
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デジタルが進化すればするほど、実はアナログというか、人間が本来持っている感性や感情から成り立つ、主体的な「個」が重要になってくるのだ。
松井道夫 元松井証券社長
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私は、ただ平和主義者であるだけでなく、戦闘的な平和主義者です。平和のためならば、いつでも喜んで戦います。
アインシュタイン 物理学者
吉田茂について
吉田茂は第二次大戦終戦後に内閣総理大臣を7年余りにわたって務めた政治家。戦後の混乱期にあった日本を立て直し、その後の日本の発展の基礎を築いた。また、第二次大戦後に国家神道を推進したとして廃止された皇學館大学の再興に取り組み、1962年(昭和37年)新制大学として新たに設立し初代総長となった。勲章として最高位の大勲位菊花章頸飾を得ている。
1878年(明治11年)現在の東京都千代田区生まれ。父は土佐藩の武士で、明治には実業家に転身した竹内綱。1881年(明治14年)2歳で横浜で貿易商を営んでいた吉田健三の養子となる。学習院を経て東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1906年(明治39年)外務省に入省した。外交官となった吉田茂は20年近くを中国の地で過ごし、第一次大戦及び第二次大戦を経験。第二次大戦前にはアメリカとの和平工作を図ったが成功しなかった。また、第二次大戦中の1945年(昭和20年)には終戦工作に関わったとして陸軍の憲兵隊に拘束されている。
第二次大戦後は、反軍部の外交官としてGHQに重用され、1945年(昭和20年)東久邇宮内閣、幣原内閣の外務大臣を務めた。翌年日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴って新総裁に就任。吉田茂は内閣総理大臣に指名された。1947年(昭和22年)日本国憲法下で最初の選挙が行われると日本社会党が第一党となったため、吉田茂内閣は総辞職。日本社会党の片山内閣、芦田内閣が早々に退陣すると、民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田茂が総裁に指名された。1948年民主自由党が単独で政権を握り、第二次吉田内閣が発足した。1951年(昭和26年)吉田内閣のもとでサンフランシスコ講和条約を締結。同日、日米安全保障条約も締結した。1954年(昭和29年)野党による不信任案の可決が避けられなくなり内閣総理大臣を辞任。その後、1955年(昭和30年)の自由民主党結党には参加せず、無所属となる。2年後の1957年(昭和32年)自由民主党に入党。1962年(昭和37年)終戦後に廃止されていた皇學館大學が新制大学として設立され、この新設に関わった吉田茂は総長に就任した。1967年死去。享年89歳。