吉田茂

内閣総理大臣

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

吉田茂の名言

吉田茂の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 権力に左右されるような政治家は、また別の権力が現れた場合には、意気地なくこれになびくものだ。

  • 地下資源に恵まれない日本が繁栄するには、まず自分の国を愛する愛国心を失ってはいけない。それには世界諸国の理解を深め、仲良くお付き合いする国際心が無ければならない。

  • 君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、チヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。

  • 私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官など、とても務まりません。

  • 言うべきことは言うが、あとは潔く従う。

  • 歴史書を読むといい。歴史書を読むと、人の行動がよく読める。なにが変わって、なにが変わっていないかよくわかるから。

  • 忍耐がどんな難問にも解決策になる。

  • だいたい、君たちとは食べ物が違うんだよ。それは君、人を食っているのさ。

  • 大志を抱けば、天下何ものか恐るるにたらず。

  • 戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。

  • 戦前にわが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、もし完備していたら、勝っていたかもしれない。

  • 明治維新当時の先輩政治家たちは、国歩艱難裡に国政に当り、よく興国の大業を成し遂げたのであるが、その苦心経営の跡は、今日よりこれを顧みるに歴々たるものがある。

  • 三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は生き続ける。

  • 今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。

  • いつまでも外国によってその安全を守ることは国民のプライドが許さない。

  • もし日本の統計が正確であったら無茶な戦争など致しません。また統計通りだったら日本の勝ち戦だったはずです。

  • 戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。

  • 忙しいと疲れたは、自慢にならん。

  • これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく。

  • 負けっぷりは立派にしようというのが、私の総司令部に対する一貫した考え方だったのである。

  • 僕もこれだけやってきたら天国へ行けるだろう。しかし仏教のためにも多少努力したから、阿弥陀様が極楽へ来いと言われるかもしれない。皇学館大学にも関係しているので、やおよろずの神々が高天原へご招待下さるかもしれない。だが、天国や極楽や高天原は案外つまらんかもしれないね。長年付き合った友人はみな悪人どもだから彼らは地獄におるはずなんで、私一人天国では退屈するに違いない。どうも地獄の方が面白そうじゃないか。

  • 天災の多い国においては、国民食糧は相当の余剰を持って置くことが、日本の食生活の上、国民生活の上において安全である。

  • 大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます。

吉田茂の名言を見ている方へお薦めする名言

吉田茂の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

吉田茂について

吉田茂は第二次大戦終戦後に内閣総理大臣を7年余りにわたって務めた政治家。戦後の混乱期にあった日本を立て直し、その後の日本の発展の基礎を築いた。また、第二次大戦後に国家神道を推進したとして廃止された皇學館大学の再興に取り組み、1962年(昭和37年)新制大学として新たに設立し初代総長となった。勲章として最高位の大勲位菊花章頸飾を得ている。

1878年(明治11年)現在の東京都千代田区生まれ。父は土佐藩の武士で、明治には実業家に転身した竹内綱。1881年(明治14年)2歳で横浜で貿易商を営んでいた吉田健三の養子となる。学習院を経て東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1906年(明治39年)外務省に入省した。外交官となった吉田茂は20年近くを中国の地で過ごし、第一次大戦及び第二次大戦を経験。第二次大戦前にはアメリカとの和平工作を図ったが成功しなかった。また、第二次大戦中の1945年(昭和20年)には終戦工作に関わったとして陸軍の憲兵隊に拘束されている。

第二次大戦後は、反軍部の外交官としてGHQに重用され、1945年(昭和20年)東久邇宮内閣、幣原内閣の外務大臣を務めた。翌年日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴って新総裁に就任。吉田茂は内閣総理大臣に指名された。1947年(昭和22年)日本国憲法下で最初の選挙が行われると日本社会党が第一党となったため、吉田茂内閣は総辞職。日本社会党の片山内閣、芦田内閣が早々に退陣すると、民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田茂が総裁に指名された。1948年民主自由党が単独で政権を握り、第二次吉田内閣が発足した。1951年(昭和26年)吉田内閣のもとでサンフランシスコ講和条約を締結。同日、日米安全保障条約も締結した。1954年(昭和29年)野党による不信任案の可決が避けられなくなり内閣総理大臣を辞任。その後、1955年(昭和30年)の自由民主党結党には参加せず、無所属となる。2年後の1957年(昭和32年)自由民主党に入党。1962年(昭和37年)終戦後に廃止されていた皇學館大學が新制大学として設立され、この新設に関わった吉田茂は総長に就任した。1967年死去。享年89歳。