オットー・フォン・ビスマルク

プロイセン王国首相、ドイツ帝国首相

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オットー・フォン・ビスマルクの名言

オットー・フォン・ビスマルクの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 我々が歴史から学べるのは、誰も歴史から学んでいないという事実だけだ。

  • 自分の間違いから学ぶのは愚か者だけだ。賢者は他人の間違いから学ぶ。

  • 戦場で兵士が死んでいくときの目をじっと見たことのない人間は、戦争が始まる前に真剣に考える必要がある。

  • われわれは愛と好意には簡単に丸め込まれる。それはおそらくは余りにも容易い。しかし、脅しによって丸め込まれることは絶対にないのだ。

  • 名誉と独立を望む国民は全て、自国の平和と安全は自分自身の剣によることを意識しなければならない。

  • 政治に関する情報は、政府がそれを公式に否定するまで信じてはいけない。

  • 上手く遂行された稚拙な計画は、拙く遂行された綿密な計画よりもずっと良い結果を生む。

  • ソーセージが好きな人と、正義を信じる人は、それが作られる過程を見てはいけない。

  • 私は勝利に終わった戦争さえも悪だと思う。政治家は国が戦争を避けるよう努めなければならない。

  • 私の立場にあると自らの主張を通すことは、場合によってはまさに犯罪行為となる。責任のない立場にあれば、そんな贅沢も許されようが。

  • 「原則としては賛成だ」と誰かが言う時、その人はそれを実行しようする意思を微塵も持っていない。

  • 予防戦争を仕掛けるのは、死への恐怖から自殺をするようなものだ。

  • 狩りの後、戦争中、選挙前は人が最も嘘をつく時だ。

  • ロシアと戦ってはいけない。彼らは軍略に対して予測できない愚行で返してくる。

  • 勝利に終わる戦争と言えども、それは常に一つの悪であると私は考える。政治は民衆を戦争から守る努力をしなければならぬ。

  • 今日議論される大いなる疑問は、演説や多数決で解決されることはありません。それらを解決するのは武器と血です。

    出典:  プロイセン議会の予算委員会でのスピーチ

  • 我々は強者が道徳上の良心によって弱められ、弱者が厚かましさによって強くなるという素晴らしい時代に生きている。

  • 原則にしがみつくのは、それを実地に試してみない間だけのことです。一旦試してみれば、人はそんなものは農夫がスリッパを投げ出すように捨てて、生まれたままの素足の走り心地を喜ぶのです。

  • 神を怖れよ、そして、他の何人をも怖れるな。

  • 現在の大きな問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって解決される。

  • 強者が弱者に貪り尽くされるのは宿命なのだ。

  • この世界をバカにしたいなら、真実を話すだけでよい。

  • 本当に偉大な人物は3つの特徴により世に知られる。話し合いでの寛大さ、遂行時の慈悲深さ、栄誉に対しての節度。

  • アメリカは幸運な国だ。南北は脆弱な国と、東西は魚と国境を接している。

  • 歴史が証明する所によると、逃した機会は二度と戻ることはない。

  • 絶対主義が支配者に最も求めることは、公平さ、誠実さ、義務感の強さ、精力的な活動、謙遜の心を持つことである。

  • 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

  • ロシアの弱みに付け込んで、利益を得ようなどと期待してはいけない。ロシアはいつも金銭のために動く。彼らと対峙する時は、署名された合意書に頼るのではなく、自らの正当性を主張することだ。彼らと書面を取り交わす価値はない。したがって、ロシア人には公正な態度で臨むか、付き合わないかだ。

  • 法が稚拙であっても、官僚が優れていれば国は治められる。だが、官僚が稚拙であれば、最高の法があっても救いようがない。

  • ドイツ帝国内でのプロイセンの序列は、自由主義の進度で決まるのではない、その力によって決まるのだ。プロイセンは今までに何度か訪れては逃してきた好機を掴むため、強国化に集中せねばならない。

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オットー・フォン・ビスマルクについて

オットー・フォン・ビスマルクは「鉄血宰相」の異名を持つ19世紀のドイツの政治家。プロイセン王国の首相となり、普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成。さらに普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)でナポレオン率いるフランスを破り、南ドイツ4カ国(バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシュタット)を従属させてドイツ統一を達成。ドイツ帝国を成立させた。

1815年プロイセン王国・シェーンハウゼンの貴族の家に生まれる。ゲッティンゲン大学とベルリン大学で法律を学ぶ。卒業後、ビスマルクはプロイセン王国の官僚となるが、3年で退官して地元のシェーンハウゼンに戻って実家の所領の管理をする。1847年プロイセン連合州議会の議員となる。1849年にビスマルクはこの時新設されたプロイセン衆議院の議員にも当選し、3年間務める。1851年にはドイツ連邦議会プロイセン全権公使に就任し、プロイセンの外交官として活躍し始める。1859年駐ロシア・プロイセン全権大使、1862年駐フランス・プロイセン全権大使を歴任し、1862年ビスマルクはプロイセン首相となった。プロイセンの軍国化を推進し、1866年普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)に勝利して、ドイツからオーストリアの影響力を排除し、北ドイツ連邦を成立させた。さらに1870〜1871年には普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)で皇帝・ナポレオン率いるフランスに勝利する。このとき共に戦った南ドイツ4カ国(バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシュタット)を北ドイツ連邦に引き入れ、1871年ドイツ帝国を成立させた。ドイツ帝国の建国と同時にビスマルクはドイツ帝国初代首相となった。1890年まで20年近く首相に君臨し、通貨の統一,中央銀行の創立,統一民・商法典の制定,高等裁判所の設立、社会保障制度の充実、保護関税政策による産業保護などを行った。1898年死去。享年83歳。