小泉純一郎

第87、88、89代内閣総理大臣

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小泉純一郎の名言

小泉純一郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 闘って敗れた負け組は褒められるべきで、むしろ闘おうとしない人が問題。

  • 新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。

    解説:  2002年5月の所信表明演説

  • 今までのように派閥トップが総裁候補というわけではない。領袖同士が集まって候補をまとめようと思っても、まとまりにくい状況だ。古い自民党は壊れている。

  • どの時代にも成功する人、しない人はいる。負け組にチャンスをたくさん提供する社会が小泉改革の進む道。

  • 「見えない」という人は、「見ようとしていない」のである。

  • 失うことを恐れてはしがらみから抜けられない。しかし捨て身で臨めば何でもできる。

  • 格差が出ることが悪いとは思わない。能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない。

  • 毎日毎日、精いっぱい全力投球でいこうとの思いだけだった。気がついたら、もう5年が経過していた。

    解説:  首相在任期間を振り返って

  • 私が総裁になれば必ず自民党を変え、日本の政治を変える。

  • 影ばっかりだったところにようやく光が出てきた。光が見え出すと影の事を言い出す。

  • 権力は万能ではない。権力半分・信頼半分じゃなければものごとは進まない。

  • 「勝ち組」「負け組」はいいけれど、「待ち組」は問題。

  • 人は私のことを常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、私は自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている

  • 原発は安い電力ではないということがはっきりした。今後、原発が最もコストが安いとして新設、増設とはいかない。

  • 私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ。

  • 痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!

    解説:  2001年大相撲夏場所の表彰式。怪我をおして出場し、優勝した貴乃花に対して。

  • 今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。

    解説:  2002年5月の所信表明演説で。

  • 改革に終わりはない。改革はありすぎるぐらいあるから、気を引き締めて取り組んでいく。

  • 悪平等で努力しなくても同じだとか、一生懸命がんばっても一等賞、二等賞、三等賞が全部同じだと、やる気をなくす人が出る。

  • 過去の歴史を振り返ってみても、日本人は、ひとつの目標を「いいな」と思ったら、その目標の実現に向かって一丸となって協力できる国民です。かって戦争に負け、あれほどの痛手を日本中で負いながら、日本国民は今日まで生きてきました。それは、変化に対応できる能力と、心の強さがあったからです。

  • 人は他に頼らず、何事も独力で行うことによって自分の尊厳を保つべきなのです。そして、そうした一人一人が独立した生計を立てることによって、一国というものも独立するのです。つまり、一身独立して一国が独立する、ということです。そのためには、まず努力・向上心によって自らの身を立てていかなくてはなりません。

  • 政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。「使い捨てされるなんて嫌だ」なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい。

  • 失敗のない人間は、面白くない。

  • 昨日の敵は今日の友。今日の友はあしたの敵。これが当たり前の世界だ。これをわきまえながら友情ははぐくむことが大事だ。

  • 派閥に入らなくても政治家として立派に活動し、選挙を戦えるような体制を自分と幹事長で責任を持って必ず作る。がんばって二回目を自分の力で上がってくるように。

    解説:  「小泉チルドレン」と呼ばれた1年生議員に対して

  • まあ、これからいろいろな動きが出てきますから…。政治家が会合するのは悪いことではない。

  • 邪魔する人がたくさんいる。敵はあまたにあり。志を持ってがんばってほしい。

  • 山を越え谷を越え、一度は谷底に突き落とされたけど、国民が生き返らせてくれた。

  • 除名は議員にとって死刑宣告みたいなものだ。どの議員も国民から選ばれており、そういう民意も尊重し、よく慎重に考えなきゃいけない。

  • 私も引き際、散り際を大事にして、任期中は首相の職責を精いっぱい頑張っていきたい。

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小泉純一郎について

小泉純一郎は2001年から内閣総理大臣を5年以上にわたって務めた政治家。総理大臣の在任期間は1980日で、辞任当時戦後歴代4位の長期政権だった。首相在任時は積極的にメディアに露出して高い人気を誇り「小泉劇場」と呼ばれた。政策面では「聖域なき構造改革」を掲げ、政府の役割を縮小し、民間の活力を取り入れる方針を示した。首相在任中は「小さい政府」を施行した政策を断行。バブル崩壊後の経済の混乱を収束させて経済成長に向かわせながら財政の健全化も達成した。しかし一方で、社会保障費の削減や派遣労働の拡大によって、貧富の差が拡大したとの批判もある。

1942年(昭和17年)神奈川県横須賀市生まれ。祖父・小泉又次郎は逓信大臣、父・小泉純也は防衛庁長官を務めた政治家一家だった。横須賀高校から慶應義塾大学経済学部に進学。大学卒業後ロンドンに留学していたが、父が急死したために帰国し、1969年12月(昭和44年)父の跡を継いで神奈川2区から衆議院議員選挙に出馬するも落選した。

選挙に落選した小泉純一郎は、当時大蔵大臣だった自民党の大物議員・福田赳夫の秘書となり、そこで政治を学んだ。1972年(昭和47年)12月の衆議院議員総選挙に再び挑戦し、初当選を果たす。父・純也は自民党藤山派に所属していたが、小泉純一郎が当選した時には分裂を経て既に消滅しており、秘書として仕えた福田赳夫が領袖の福田派に所属した。後に盟友となる山崎拓、加藤紘一は同じ選挙で初当選した同期であり、この頃から親しくなった。1978年(昭和53年)に結婚し3人の子をもうけたが、4年後に離婚している。議員としては順調に当選を重ね1988年(昭和63年)竹下内閣で厚生大臣に任命され初入閣。しかし、直後にリクルート事件によって竹下内閣が総辞職し、在任期間はわずか2ヶ月だった。1991年(平成3年)当時の海部首相の続投を阻止するため、山崎拓、加藤紘一と共闘。小泉純一郎の所属する三塚派、山崎の渡辺派、加藤の宮沢派がそろって続投に反対したことにより、海部は続投を断念。この頃から、山崎拓、小泉純一郎、加藤紘一はその頭文字をとった「YKK」呼ばれ日本の政治を動かす一大勢力となっていった。1992年宮沢内閣で郵政大臣に就任。

1995年(平成7年)小泉純一郎は自民党総裁選に出馬する。この時の総裁選は小渕派の橋本龍太郎の圧勝が予想されており、対抗馬がおらず無投票を防ぐために小泉が出馬したものだった。結果は橋本の勝利に終わったが、総裁選を戦ったことにより小泉は次世代のリーダーとしての存在を党内外に示すことに成功した。翌年橋本内閣で厚生大臣に就任。

2001年、森喜朗の首相退任後の自民党総裁選に出馬。最大派閥・橋本派から出馬した橋本龍太郎の当選が有力視されていたが、小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す」、「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」など歯切れのいい発言で国民の任期を得て、選挙での人気を期待した政治家の支持が集まり、総裁選に勝利。第87代内閣総理大臣に就任する。総理大臣在任中は郵政事業民営化、道路公団民営化、派遣労働の拡大、金融機関の資産査定の厳格化による不良債権処理、社会保障へのマクロ経済スライドの導入、国債の新規発行30兆円枠の設定など政策を断行した。2006年9月任期満了をもって自民党の総裁を辞任し、内閣総理大臣を退任した。2008年政界からの引退を発表、息子の小泉進次郎を後継者に指名した。

2011年の東日本大震災後、原子力発電の危険性を痛感した小泉純一郎は脱原発の活動を開始。メディアでの発信や団体の設立などを行っている。2014年の東京都知事選では、脱原発を主張する細川護煕への支援を表明したが、細川は落選に終わった。