ウィンストン・チャーチル

イギリス首相、軍人、作家

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ウィンストン・チャーチルの名言

ウィンストン・チャーチルの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 楽天家は、困難の中にチャンスを見出す。悲観論者は、チャンスの中に困難を見る。

  • 敵がいるって?それはよいことだ。それはあなたが人生の中で、なにかに対して立ち向かったことを意味する。

  • 資本主義の悪習は、繁栄による分配が不平等なことだ。社会主義の悪習は、窮乏が平等に分配されることだ。

  • 我々は、勝ったから慈悲深くすることができるのだ。我々は、強いから寛大でありうるのだ。

  • 政治家に必要なのは5年後、10年後のことを予想できる才能であり、かつ、それが外れたときに言い訳ができる才能である。

  • 前向きな考え方をする者は、見えないものを見て、実体のないものを感じ取り、不可能と思われることを実現する。

  • ある国が英雄を讃えなくなったら、すぐに讃えるような英雄は現れなくなるだろう。

  • 成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。

  • 凧が高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない。

  • 悲観主義者はいかなる機会に恵まれても困難を見つけ、楽観主義者はいかなる困難であっても機会を見つける。

  • 私はもう人々がなにを言うのかを聞かない。ただ彼らがどう行動するかを見るのだ。行動は嘘をつかない。

  • 民主主義においてもっとも良い議論は、ありふれた有権者との5分間の会話である。

  • 生活はなにかを得ることによって成り立つが、人生はなにかを与えることによって成り立つ。

  • 勇気とは、失敗に次ぐ失敗を熱意をもって乗り越える能力だ。

  • 世間はウソであふれているが、いちばん困るのはそのうち半分は本当だということである。

  • 危険が身に迫った時、逃げ出すようでは駄目だ。かえって危険が二倍になる。決然として立ち向かえば、危険は半分に減る。何事に出会っても、決して逃げるな。

  • 金を失うのは些細な事で、名誉を失うのは甚大だ。だが、勇気を失うことは全てを失うことだ。

  • 世の中で、最もよい組み合わせは力と慈悲、最も悪い組み合わせは弱さと争いである。

  • ある者は信念のために政党を変え、他の者は政党のために信念を変える。

    出典:  「The Wicked Wit of Winston Churchill」

  • 二人の人間がすべてにおいて同じ意見なのであれば、そのうち一人は必要ない。

  • 恐れとは反応であるが、勇気とは決定である。

  • 未来のことはわからない。しかし、我々には過去が希望を与えてくれるはずだ。

  • どんなことでも、大きいことでも、小さいことでも、名誉と良識とが命ずるとき以外は、断じて譲るな。力に対し、とくに敵の圧倒的優勢な力に対しては、断固として絶対に譲ってはいけない。

  • 何が本当に自分の利益であるか、ということを知ることは容易ではない。

  • 大いなる恐れは想像によって作られる。想像に負けてはならない。

  • 最善を尽くすというだけでは足りないこともある。最善ではなく、必要とされていることをしなければならないのだ。

  • あまり先を読みすぎるのは誤りである。運命の鎖の輪は一つずつ扱われねばならない。

  • 打算的な人がどれほど世の中で失敗の実例を示しているか、驚くばかりだ。

  • 行動する事は少しも恐れはしない。恐れるのは、ただ無為に時を過ごす事だけだ。

  • 回想していると、ある老人の話が思い出される。その老人は死の床でこう言ったのだ。生きている間には数々の心配ごとがあったが、その心配が当たったことはほとんどなかった。

ウィンストン・チャーチルについて

イギリスの元軍人。インド・マカランドでのパシュトゥーン人反乱鎮圧、スーダン侵攻に従軍した。1900年の総選挙で保守党から立候補し初当選。1940年には首相に就任する。就任当時はドイツがポーランドや北欧へ侵攻するなど、第二次世界大戦の初期であった。ウィンストン・チャーチルはアメリカ大統領ルーズベルトらとともに連合国側の戦略立案、戦後体制の構築を担い、連合国を勝利に導いた。戦後にはチャーチルの口述を中心とした歴史書「第二次世界大戦」を出版し。ベストセラーとなり、この本でノーベル文学賞も受賞している。

1874年イギリス・ウッドストック生まれ。チャーチル一家は代々続く公爵家で、父は保守党の政治家でインド担当大臣や財務大臣を務めたランドルフ・チャーチル。なお、祖父が保持していた爵位は叔父のジョージ・チャーチルが相続したため、父ランドルフの身分は平民だった。

サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業してウィンストン・チャーチルはイギリス陸軍の軍人となる。1895年スペイン領キューバで第二次キューバ独立戦争が起こると、イギリス軍から休暇をとって現地に趣いた。キューバではスペイン軍に従軍して新聞の特派員として働き、ゲリラとの銃撃戦も経験した。1896年イギリス領インドに駐留。翌1897年インド北西部のマカランドで起きたパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦に戦闘員として参加したが、目立った戦功を上げることはできなかった。1898年にはアフリカ北東部のスーダンで、マフディー教徒による支配を打ち破るためのスーダン侵攻軍に参加。戦闘はイギリス軍の勝利に終わった。この頃チャーチルは、インド北西部マカランドでの軍事作戦について書いた「マカランド陣営」、スーダン侵攻の経験を描いた「河畔の戦争」を出版した。

1899年軍隊ウィンストン・チャーチルはを除隊し保守党から庶民院の補欠選挙に出馬するも落選。同年南アフリカでのボーア戦争に新聞特派員として従軍した。1900年の庶民院解散で再び保守党候補として立候補し、今度は当選した。1904年保守党を離党して自由党に参加。1905年父ランドルフ・チャーチルの伝記を完成させる。1908年アスキス内閣で商務大臣、1910年同内閣内務大臣、1911年同内閣海軍大臣、1915年第二次アスキス内閣ランカスター公領担当大臣に就任。1915年ランカスター公領担当大臣を辞任すると第一次世界大戦の陸軍に参加し、フランスで従軍し大隊長を任されるが、早々に解任されてしまう。1917年ロイド・ジョージ内閣で軍需大臣、1919年同内閣戦争大臣兼航空大臣、1921年同内閣植民地大臣を歴任するも、1922年の解散総選挙で落選。落選したチャーチルは自由党を離党し保守党に復帰した。

1924年の解散総選挙で保守党から出馬して当選し、第2次ボールドウィン内閣の財務大臣に任命される。ここでチャーチルは金本位体制への復帰を宣言した。1929年に財務大臣を辞任した後は目立った役職には就けず、再び大臣職に就いたのは第二次大戦開戦後の1939年で、チェンバレン内閣の海軍大臣に就任した。1940年対ドイツ戦での失態により首相チェンバレンが失脚すると、対ドイツ強硬派の代表格だったチャーチルが首相に就任。チャーチルは、対ドイツ戦で敗戦を重ねるが、アメリカの参戦により戦況は一変。イギリス、アメリカらの連合国は勝利した。しかし一方で、イギリスは戦後にその領地の多くを失い、イギリスの没落は決定的なものとなっていった。1944年ドイツとの戦争終結をもって解散総選挙を行ったが、保守党は大敗しウィンストン・チャーチルは首相を退任した。退任後も保守党党首は続投。1948年から1年ごとに第二次大戦を記録した著書「第二次世界大戦」を6巻出版。1953年にはノーベル文学賞を受賞した。1950年77歳となっていたチャーチルだが、解散総選挙で勝利して第2次チャーチル内閣を組閣。1955年まで首相を続けた。1965年脳卒中により死去。享年90歳。

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