高橋是清

大蔵大臣、日銀総裁、総理大臣

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高橋是清の名言

高橋是清の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 順境は、いつまでも続くものではない。だがな、逆境というのもまた心の持ちようひとつで、これを転じて、いくらでも順境にすることができる。

  • 国にとっても経済や金融にとっても欠くべからざるは信頼である。

  • 仕事を本位とする以上は、その仕事がどんなであろうとも、いかに賤しく、いかに簡単であろうとも、ただ一心になって、それを努めるばかりである。こうすれば、どこにも不平の起こるべき原因がない。よい地位に昇ったからとて、われを忘れて欣喜雀躍するはずもなければ、また、その地位が下がったからとて、失望落担することもないはずだ。

  • よい地位にあがったからといって欣喜雀躍するはずもなければ、またその地位が下がったからといって、失望落胆することもない。すべて己を本位とすればこそ、不平も起り失望も起るのだ。

  • 私は繰り返して言う。人間出世の目標は、精神的であって、物質的でないと。

  • その職務は運命によって 授かったものと観念し、精神を込め、誠心誠意をもってその職務に向かって 奮戦激闘しなければならぬ。いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。

  • 人間は、無一物でこの世に生を享ける。その後、どんな波瀾や苦難に直面しようとも、所詮自分の始末は自分一個の腕でつけるものだ。その時々で骨惜しみせず、おのれの信ずるままに精一杯生きて、なにも残さず、裸で堂々と死んでいけばそれでいい。

  • 他人から見てはうらやましがられるような境遇にいる時でも、自分に重きを置くことをしなかったため、特別によろこぶ気も起らない。

  • 「人の働きの値打」をあげることが経済政策の根本主義だと思っている。またこれを経済法則に照して見ると、物の値打だとか、資本の値打のみを上げて「人の働きの値打」をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる。

  • 他任に依頼し、その助力を仰ぐのは、自己の死滅であると、私は信じている。

  • これまで私が官途についたのは、衣食のためにしたのではない。今日までは何時でも官を辞して差支えないだけの用意があったのである。従って、上官が間違っていて正しくないと思ったときは、敢然これと議論して憚るところがなかった。しかるにいまや、私は衣食のために苦慮せねばならぬ身分となっている。到底、以前のように精神的に国家に尽くすことができない。

  • 学問は之を使ってこそ、始めて効用がある。世間の実情を観るに、学問を利用せず、却ってその奴隷となる人が少なくないようである。

  • 私は考えるに、真実の楽天的境地というものは、人事を尽した後でなければ得られるものではない。即ち、事成ればもとより快、成らずともなお快たるを失わない。ここに至って初めて天を楽しむことができると思う。

  • どんな苦難に直面しても、常に人生を楽しめと説いたのである。おのれの運を信じ、楽観的に物事を見る。そこから拓ける道がある。

  • 資本が、経済発達の上に必要欠くべからざることは言うまでもないことであるが、この資本も労力と相まって初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位から言えば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。ゆえに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信している。

  • もとより財政上緊縮を要するといふ事はあるが、その場合には、なるべく政府の新たなる支出を出来るだけ控目にする事が主眼で無くてはならぬ。

  • 経済発展には、これまでの武官重視から実業人重視に切り替えねばならない。それでなければとうてい、国力の充実、伸長はない。

  • 栄枯盛衰は、人生の常である。順境はいつまでも続くものではなく、逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることもできる。境遇の順境は、心構え一つでどうにでも変化するものである。

  • 言ふまでも無く、如何なる人の生活にも、無駄といふ事は、最も悪い事である。これは個人経済から云へば、物を粗末にする事である。

  • 百貫の力量あるものが、常に百貫の全力を一杯に用いることは誤りである。よろしく七十貫の力を常に用いて、余りの三十貫は貯蓄しておくべきである。こうすれば、一朝事があった場合には、百二十貫の力を出すことも出来よう。

  • 国家といふものは、自分と離れて別にあるものではない。国家に対して、自己といふもののあるべき筈はない。自己と国家とは一つものである。

  • どんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつか強い運が向いてくるものだと気楽に構え、前向きに努力した。

  • いくら為替安であらうが廉価であらうが、輸出品が劣悪であれば、今日のごとき邦品の海外進出は到底望まれるものではない。刻苦精励、工夫を凝らし生産設備を改善し、研究に研究を重ねて今日の結果を招来したのであつて、このたゆまざる永き努力の上に、徐々に躍進の素地が築かれて来たのである。

  • 「我」を去り私心をなくす、そうして自然の大道と己を一緒にしてみると、「生死」というものがなくなってくる。

  • 株は、細く長く利殖を得ることを楽しまねばならぬ。ところが、わが国の株主にはさような観念がさらにない。はなはだしいのになると、借金までしても、株主になる。そして、一時の僥倖によって利益を得ようとあせる。つまり、本当の株主ではない。これではまるで相場師と少しも違わない。

  • もっと歳が若くて、先へ行ってご奉公できるというのなら別だが、ワシはもうこの年齢だ。いま、ご奉公しなければするときがない。ワシは最後のご奉公と思って入閣した。

  • 子供の時から今まで、一貫して、どんなつまらない仕事を当てがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった。だから、世間に対し、人に対し、仕事に対しても、一度も不平を抱いたことがない。

  • 私も今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、食うに困るから助けてくださいと、人に頼みにいったことは一度もない。

  • 一家和合といふことは、一家族が互に信頼するといふことから起る。信頼があつてこそ、出来ることだ。また経済界においても工業、銀行、商業など各種当業者の間に相互の信頼があり、資本家と労働者の間にも、同様信頼があつてこそ、繁栄を見る事が出来るのである。

  • 企業心と云ふものがなければ物の改良も拡張も出来ず、新規の仕事も起せない。多少の危険がある。初めて企業を起す、それが先駆となつて商業でも製造工業でも発達して行くのである。その企業に必要なのはやはり経営者なのである、それだけ力のある人が経営しなければやはり外国との競争に対抗して行く訳にはいかない。

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高橋是清について

高橋是清は大蔵大臣時代に行った積極財政「高橋財政」で有名な政治家。「ダルマ蔵相」、「ダルマさん」と呼ばれて親しまれた。農商務省、日本銀行出身で経済、金融に精通し、日銀総裁や大蔵大臣、農商務大臣、総理大臣を歴任した。

1854年江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)に幕府の御用絵師の子として生まれる。生後間もなく仙台藩藩士の養子となる。横浜で英語を学び、1867年1年間のアメリカ留学を経験。帰国した後、英語教師などをしたのち1881年(明治14年)文部省に入省。すぐに農商務省に転じて商標登録、特許制度の立案にあたる。特許局長にまで昇進したが、1889年(明治22年)退官してペルーの銀山開発に挑んだが失敗に終わる。帰国後の1892年(明治25年)日本銀行に入行。日本銀行では副総裁まで上り詰め、1905年(明治38年)貴族院議員に転身。1911年(明治44年)日銀総裁に指名される。

日銀総裁時代に積極財政を説いたことで注目され、1913年(大正2年)高橋是清は山本権兵衛内閣で大蔵大臣となる。次の原内閣でも引き続き蔵相を務め、鉄道、電話、教育などに対する支出を増やす積極財政政策を行った。1921年(大正10年)総理大臣・原敬の暗殺により高橋是清が総理大臣を引き継ぎ、約半年間務めた。その後も加藤高明内閣で農商務相に任命された。

1927年(昭和2年)の金融恐慌では、銀行の取り付け騒ぎが起こる中田中義一内閣の大蔵大臣に就任し、モラトリアム(支払い猶予)を断行して金融恐慌を沈静化させた。世界恐慌が起こり、日本も昭和恐慌に陥っていた1931年にも、総理大臣・犬養毅に請われて大蔵大臣に就任。金輸出の禁止、政府債務の日銀引き受けによる政府支出の増額などを行い、恐慌の収束を実現した。これらの施策は高橋是清が主導したことから、「高橋財政」と呼ばれた。

岡田内閣でも大蔵大臣を務めた高橋是清は、無秩序な政府支出の増大が大幅なインフレーションをもたらすことを懸念し、1935年ごろから緊縮政策を採るようになった。それに伴って軍事予算を縮減したことが軍部の恨みを買い、1936年(昭和11年)二・二六事件で青年将校によって殺害された。享年81歳。