犬養毅
第29代内閣総理大臣
犬養毅の名言
犬養毅の過去の名言をまとめた名言集です。
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すなわち記者諸君は公平なる地位にあって、各政党の正不正を裁く裁判官であると同時に、政党が正義に向かって進むことを躊躇する場合、これを鞭撻し激励する役目にあるものである。いかなる臆病太郎といえども「お前は強いぞ」と始終励まされると、卑怯な真似はようしないものである。
出典: 全国護憲記者大会での演説
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政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。
出典: 全国護憲記者大会での演説
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今の暴れ者をもう一度呼んで来い、話して聞かせてやる。
解説: 五・一五事件で青年将校に銃で撃たれた後に言った言葉
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仏教もキリスト教も道教も異途同帰で、要するに根本の信念を固めることにある。しかるに、現在の我方国民教育の不完全は、道徳の根本たる信念に導くべき教えが欠けている。
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そもそも政界百弊の根源は、選挙に莫大の金を要するがゆえなれば、まずもって現行選挙法を改正しなければならぬ。
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青年血気のときには、金も持ちたし、学者にもなりたし、政治家にもなりたし、と種々の事に意思が動く。これが万事失敗の本になる。
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話せば分かる。
解説: 五・一五事件で青年将校が首相官邸を襲撃した時にかけた言葉
犬養毅の名言を見ている方へお薦めする名言
犬養毅の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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利益の側からだけ見ても、人の信用こそ商売での利益の根源なのだから、人に雇われる者は、自分の利益になる重要なことなのだと思って正直に働き、主人もまた、その正直の代償として報酬を多くすべきである。
福沢諭吉 思想家、教育家
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二人の人間がすべてにおいて同じ意見なのであれば、そのうち一人は必要ない。
ウィンストン・チャーチル イギリス首相、軍人、作家
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人間はだれでも、自分を一生を成功だとは考えないまでも、失敗だとは思いたくないものですよ。
井上靖 作家
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政治家は自らの職を守るためなら何だってする、愛国者になることだってね。
ウィリアム・ランドルフ・ハースト ハースト・コーポレーション創業者
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この人自分のことを分かってくれているんだって思う人の話は人間聞こうとしますから、コミュニケーションというのはコミュニケーションが始まる前に大体決着している。
林修 予備校教師、タレント
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自分を知りたいなら、他人がどう行動しているかを観察してみることだ。他人を知りたいなら、自分自身の心に聞いてみることだ。
フリードリヒ・フォン・シラー 劇作家、詩人、思想家
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何かを変えようとしたとき、全員を喜ばせることはできません。そして全員を喜ばせようとするなら、大きな進歩は望めないのです。
マーク・ザッカーバーグ Facebook創業者
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誰かが嘘をついていると疑うなら、信じたふりをするがよい。そうすると彼は大胆になり、もっとひどい嘘をついて正体を暴露する。
ショーペンハウアー 哲学者
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偉大で崇高なものを判断するには、それと同じ心がいる。そうでないと我々自身の中にある欠陥をそれに付与してしまう。まっすぐなオールも水の中では曲がってしまう。
モンテーニュ 哲学者
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過度に謙遜する人を真に受けてはいけない。ことに、自分で自分を皮肉るような態度を信用してはいけない。その背後には、たいがい虚栄心と名誉心の強烈な一服がひそんでいる。
カール・ヒルティ 哲学者、法学者
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私に何も要求せず、私に対して寛大であった人に感謝すべきであるのに、私は代わりに彼が私に与えなかったものを私から奪ったと考えるのだ。
デカルト 哲学者
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永遠の愛、永遠の憎しみ、永遠の信頼を約束しても果たされることはない。感情は自分自身の力が及ばないからだ。
ニーチェ 哲学者
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自由な国家では統治者が使用人であり、国民が上位者、主権者である。
ベンジャミン・フランクリン アメリカの政治家、科学者
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2年間、人に好かれようと努力するよりも、2ヶ月間、人を好きになったほうが、ずっと多くの友を得られるだろう。
デール・カーネギー 評論家、著作家
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この世界ににあなたを生かす義務があるなどと大きな顔で言ってはいけない。世界はあなたに何の借りもない。あなたより先に世界はそこにあったのだから。
マーク・トウェイン 小説家
犬養毅について
犬養毅は明治から昭和初期まで活躍した政治家。42年間衆議院議員を務め18回連続当選している。総理大臣在任中、青年将校の反乱事件で凶弾に倒れた。(五・一五事件)
1885年(安政2年)岡山県岡山市に庄屋の次男として生まれる。1876年(明治9年)慶應義塾に入学。在学中に郵便報知新聞(現・報知新聞)の取材活動に参加し、1880年(明治13年)慶應義塾を退学して記者となる。1882年(明治16年)犬養毅は大隈重信が結成した立憲改進党に入党、大同団結運動などで活躍する。1890年(明治23年)第一回衆議院議員選挙で当選を果たす。以降、7度にわたって所属政党を変えながら18回連続衆議院に当選し、42年間にわたって議員生活を続けた。
1931年(昭和7年)犬養毅は立憲政友会の総裁として内閣総理大臣に指名される。当時の日本は1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌の影響で大不況に陥っていた。犬養毅は高橋是清を大蔵大臣に指名し、金輸出禁止と金兌換停止を実施、同時に積極財政へと転換した。また、就任3ヶ月前に発生した満州事変への対応では、関東軍が行った満州国の中国からの分離独立を事実上黙認。一方で中国との間で外交交渉を重ね、外交的解決を目指した。1932年5月15日、犬養が休日を過ごしていた総理公邸に海軍と陸軍の青年将校が乱入し、犬養に向けて発砲。犬飼は顔面に被弾し、同日夜に犬養毅は死亡した。享年76歳。