川上哲治
プロ野球選手、監督
川上哲治の名言
川上哲治の過去の名言をまとめた名言集です。
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接戦をしのぎ、手堅く勝利を引き寄せるためには、個人技に頼らないチームプレーの集団にまとめるのが最善だ。
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勝っている時に負けの原因をつくっていることは確実ですね。やるべきことをやらんで手抜きがでてきます。
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努力に際限などない。努力していると思っている間は、本当に努力しているのではない。努力しているという意識が消え、唯一心になって初めて努力といえるのだ。
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スランプというのは、好調なときにその原因が作られている。だから、好調なときが一番心配です。
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ヒットを打ちたい、リーディングヒッターになりたいと焦っているうちは、球が見えない。欲に目がくらんで。
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怖いのは「小義」に惑わされて「大義」を見失うことです。人間は誰しも他人から悪く思われたくないという私心を持っています。とりわけ、プロ野球選手は年俸で生活していますから、試合に出てナンボ、打ってナンボの世界です。その生殺与奪を監督は一手に握っているわけですから「一回くらいはチャンスをあげよう」「たまには大目に見よう」という気持ちも出てきます。しかし、その甘さが勝ち星を逃がす失敗につながるのです。
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監督やコーチが選手たちに「君たちには責任はないんだ。いつものとおり思いきってやってくれればいいんだ。」といってやることです。監督や幹部がしっかり腹をくくって、選手たちには思いきったプレーをさせるムードを作っていくことが大事だと思いますね。
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プロ野球では監督が代わるのは弱い時なんです。新しい監督というのは経験もないうえに弱いチームを引き受けなければいけないんですから非常に過酷なんですね。
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基本を選手に教え込んでいくというのは、監督、コーチの指導の重要な部分です。
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監督の仕事の「大義」は試合で勝つことです。そのために能力と経験を身につけた人間が選ばれている。いかにして試合に勝つか。その一点こそが、唯一絶対の目的であり、それを達成する過程においては、個々のプレーヤーへの同情や感傷などの小義は禁物なのです。
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人生を味わうことと、人生を享楽することとは、似て大いに非なるものだ。前者は、努力の果てに、人生の意味を知ることであり、後者は単なる命の消費にすぎない。
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雑念を払って、球を打つことだけに精神を集中する。疲れる。疲れてもなお打つ。没入し切った時、球が見えてきたんですよ。
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失敗をしたことのない優等生が管理職に就いても、どこか迫力に欠ける。
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チームのためにやることがおれのプラスになるというようなことをかぶらせながら率いていくリーダーでなければ、なかなか選手をうまく働かすことができないという時代になっていくんじゃないでしょうか。根底はデータ、セオリーだと思いますけどね。
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勉学や向上の道すがらの努力や苦労には、何ひとつ無駄はない。
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人間の強い、弱いは、自分のもつ哲学からくる意思の強さ、弱さによる。
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企業に勤めると、冷や飯を食わされるときもある。そのときに愚痴をこぼしたり、腐ったりして、仕事をろくにしない人が多い。成功する人とは、この冷や飯を上手に食べた人であるといってよい。
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野球はチームワークだ。もちろん、一人一人の選手に対し、とことんその技を極めさせることも必要だが、それだけでは勝てない。いかにしてお互いを補完し合いながらチームワークを達成させ、チームパワーを出させるか。そこに勝負の分かれ目がある。
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大事な時だけ打つなということがありますけど、他はほとんど選手に任せてありますよ。
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思えば自分が四番打者だったころは苦しくてたまりませんでした。「自分が打たねば勝てない」と思っていました。
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怖いのは「小義」に惑わされて「大義」を見失うことです。
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中途半端だと、愚痴が出る。いい加減だと、言い訳がでる。真剣にやれば、知恵が出る。
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勝とうとする目的のためにはどうやるかということでチームプレイが出てくるわけです。
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無駄になる努力はない
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監督になると勝つことだけが救いなんです。
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私は打撃の方ばかりやっとったように言われておりますけど、割と緻密な野球をやっていたんです。
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周囲からどう評価されるか、という不安や心配から自らを解き放って、自分の想念を「無の境地」に置けば、問題の所在が良く見えるようになります。あとは、その問題を淡々と解決していく。こうすると自分も楽になるし、不思議なもので、だんだんと勘も冴えてくるように思います。
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チームの目標にどうやっていくかと考える選手たちをうまく育てていくことですね。だからものの考え方の基本というものが相当大きな問題になってくるような気がします。
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リーダーは人をリードできるだけの人物に早くならなくてはいけないと思う。
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ときに部下や周囲の不興を買うことがあったとしても、大義を表現するために成すべきことを成す。そういう強い信念を持った人間でなければ、リーダーは務まりません。
川上哲治の名言を見ている方へお薦めする名言
川上哲治の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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工場内で部品を取りに行くために歩くのは無駄だ。歩かなくても、すぐ部品に手が届くようにしておくこと。そうした無駄な動作に、なぜ賃金を払う必要があるのか。歩くことは何の価値も生み出さない。部品をつくったり、組み立てたりするのが仕事だ。
鈴木修 元スズキ株式会社社長
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デフレというのは、失敗を恐れ何もしない人や企業が得をする環境を作ってきた。つまりコストカットする人が出世してきた。そのなかで同質性を好むようになり、社外取締役を始め、流動性のある人事が避けられてきた。欧米の企業などはトップの異動も激しくなる一方、日本人のマインドはこの15年間で弱くなり、企業経営者のレベルも落ちてしまった。
新浪剛史 元ローソン社長、サントリーホールディングス社長
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人前に出たときにプレッシャーを感じるのは、失敗したら自分の評価が下がるのではないかという不安があるからです。私は最初に大きな失敗をしたので、失うものは何もない。おかげで、それ以降は本番でも緊張しなくなりました。
森永卓郎 経済アナリスト
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自分が何をやりたいか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる。
岡本太郎 前衛芸術家、画家、彫刻家
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私にできることといったら書くことだけで、私には小説しかないんです。僧侶になりましたが、それもいい小説を書くため。小説が私にとっての信仰です。
瀬戸内寂聴 小説家、僧侶
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創業精神がどれほど大切なものであるかを、海外も含めたグループの社員全員が学び、これをしっかりと受け継いでいかなければならない。そして、これを伝えるのは経営トップだけではなく、社員を通じてやっていくべきだ。
新浪剛史 元ローソン社長、サントリーホールディングス社長
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商売をするときは、金を儲けようなどと考えずに、ひたすら商道の本意を勤めなさい。よく商人の本意を守って努力すれば財は求めなくても集まり、豊かになることは計り知れない。
二宮金次郎 農政家、幕臣
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現代の芸術家は、技術に溺れるあまり、滅多に自身を超えるということがない。
岡倉天心 美術評論家、思想家
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組織に嫌われるのがイヤなようでは大したことは出来ません。
堺屋太一 経済評論家、小説家
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やはり「お客様にとって一番重要なものは何か」を真剣に考えたことに尽きると思います。お客様のクレームは何かしっかり見極める。それを解決するために私たちは時間とお金を惜しみなく使う。お客様が得をするために私たちが損をするしかないのです。
似鳥昭雄 ニトリ創業者
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わたしがもしも昔の時代にいたら、いま任天堂がやっているのとおなじような方法をとったと思うよ。でも、環境が変わったでしょう?周囲が変わったでしょう?ぼくらが変わらなかったらどうなる?ゆっくり死ぬ道を選ぶ?それとも、もっとたくさんの人が未来にぼくらの作ったものでよろこんでくれるようになる道を選ぶ?
岩田聡 元任天堂社長
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自分はつくづく恵まれてると思うんです。20代からコントを作らせてもらう環境を与えられてやってきましたからね。いま50代に入り、あとどれくらい、お笑いの仕事ができるんだろうと考えたら、その日の仕事をもっと大事にしたい思いは強くなるばかりですよ。
内村光良 コメディアン、タレント
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あなた方の議論はすべてどちらが正しいかという議論ばかりで、何が正しいかという議論を聞いたことがない。泥棒と詐欺師どちらが正しいかという議論をして、どちらが勝ったという結論を聞かされても、私から見ると意味がない。
鍵山秀三郎 イエローハット創業者、日本を美しくする会創始者
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シンプルなワンタッチのプレーこそ最高の技術だ。
ヨハン・クライフ サッカー選手、サッカー監督
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自分がやりたいことをやるんではなくて、どういう方向でやって欲しいかを考えて仕事しています。
林修 予備校教師、タレント
川上哲治について
川上哲治プロ野球の黎明期に活躍した天才打者。プロ野球史上初の2000本安打を達成し、「打撃の神様」と呼ばれた。引退後には読売ジャイアンツの監督に就任し、V9(9年連続日本一)を成し遂げた。
1920年(大正9年)熊本県生まれ。熊本県立工業学校の野球部に所属し、夏の甲子園で投手として準優勝し、卒業後は読売巨人軍に入団。入団当初の川上哲治は投手、野手兼任だったが、打力が開花し5年目から打者に専念した。1943年(昭和18年)から1945年までは第二次世界大戦に動員されたためプレーできず、1946年に復帰。1958年まで計18シーズンプレーし、首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度獲得。
1961年水原茂のあとを受けて読売川上哲治が巨人軍の監督に就任する。当時メジャーリーグにおいて戦力で劣っていながらも好成績をあげていたロサンゼルス・ドジャースに着目し、その戦術を取り入れた。就任初年度の1961年は絶対的エースがいないという不利を抱えながらもリーグ優勝、日本一に輝いた。1963年にも日本一を達成したのち、川上哲治は1965年から1973年まで9年連続日本一という前人未到の記録を打ち立てた。1974年リーグで2位となり辞任した。2013年死去。享年93歳。