長嶋茂雄

プロ野球選手、監督

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

長嶋茂雄の名言

長嶋茂雄の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 努力してますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルといえない。

  • プレッシャーを楽しいと思った時、その人間は本物になれます。

  • 打ったときより三振したときに、いかに豪快に見せるか、相手に恐怖感を意識させるかを考えた。

  • デビュー開幕戦でも4連続三振。監督としても最初は最下位。あとはよくなるばかりだと思うしかなかった。

  • チームコンダクターっていうのはね、いつも顔色をよくしとかんといかんのですよ。コンダクターが暗い顔でいたんじゃ仕様がない。体調をよくして、いつも元気いっぱいなところを見せないと選手はついてこないし、チームも元気がなくなるもんです。

  • ジャイアンツの監督は大変、なにしろ毎日がジャイアンツ戦ですから。

  • なにか一つのことに脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は幸せかもしれない。今の若い人達はのめりこめるものを見失っている。不幸な時代だとは思うけども、時代のせいにするのはどうかな。

  • ショービジネスとしてね、見せる一つの商売からいきましてね、同じ負けでも全くいい負け方であったというイメージを持って、ファンに家路についてほしい。

  • 挫折してもプライドは失わない、それは努力しているからだ。

  • ジャイアンツの4番はバットを短く持ってはいけない、だから投球後に短く握り直すんです。

  • 打った時より三振した時に、いかに豪快にみせるか、相手に恐怖感を意識させるかを考えた。スターはみんなの期待に応える存在。スーパースターの条件は、その期待を超えること。

  • グランドに出たなら、先輩後輩の序列はないんだ。

  • 初めての還暦でございまして

  • 少なくとも、セオリー通りの安全な道ばかり歩いていては、生きがいなんか生まれませんよ。ときには冒険も必要です。周囲の批判を恐れず、「俺はできるんだ」とやり抜く–それが男のロマンでしょう。

  • なぜ逃げるのか。打たれて命を取られるのか。打たれたからって命を取られるわけないんだ。逃げるな。

  • 失敗は、成功のマザー。

  • 「あしたはきっと良いことがある」。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません。

  • 努力は人が見てないところでするものだ。努力を積み重ねると人に見えるほどの結果がでる。

  • 結果が悪ければ天もファンも見限る。それが監督業。負けるのは監督が悪い。

  • 野球選手には人間関係で悩む暇などない。すべてはバットを振り、ボールを追いかけることで解決すべきなのだ。

  • 長嶋茂雄であり続けることは、結構苦労するんですよ。

  • 「球がこうスッと来るだろ」「そこをグゥーッと構えて腰をガッとする」あとはバァッといってガーンと打つんだ。

  • 若いプレイヤーが昔のように心から感動したり、感動しきれない。それは、やはり時代でしょう。だけど感動を知らない人生というのは、何か生きている味わいみたいなものがないわけです。感動はスポーツばかりじゃありません。あらゆるジャンルにある。何かに感動しながら日々新たな気持ちで挑戦して行く。これこそ生きる上での一番の王道と言えるのではないでしょうか。

  • 英語で「サムシング」といいますね、「何か」。そのサムシングをつかむのは、理論でもトークでもない。やっぱり心と心のぶつかり合いですよね。

  • ウサギとカメならカメでいい。我慢する勇気が重要なんです。

  • いつもずっと思っていることは、現実になっていきます。よいことを常に思っていましょう。

  • プロなら陰の苦労や苦悩を人前でみせるべきでない。

  • いいか、滑る時の足は、カギカッコにするんだ。

  • 口惜しかったさ、そりゃもう。でも、あれほどいい三振もなかった。あれほど生きた三振というのもなかった。

  • いやあ興奮を通り越して、エキサイティングしました。

長嶋茂雄の名言を見ている方へお薦めする名言

長嶋茂雄の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

長嶋茂雄について

立教大学在籍中に東京六大学野球の本塁打記録を作るなど大活躍したのち、プロ野球入り。読売ジャイアンツで首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、MVP5回など大活躍をみせる。ユニークな言動でも注目される。昭和のプロ野球人気の高まりに大きく貢献した功労者。

1936年(昭和11年)長嶋茂雄は現在の千葉県佐倉市に生まれる。小学校6年生で野球を始め、地元の野球団ハヤテ・クラブに入団。中学校でも野球部でプレーしたのち千葉県立佐倉第一高校に入学。佐倉第一高校は進学校で野球部は決して強くなく、高校時代は甲子園出場はおろか、地区予選の突破もままならないチームだった。そんな中でも長嶋茂雄の打撃はスカウトの目に止まり、読売ジャイアンツから契約の打診もあったというが、立教大学に入学。立教大学では8本塁打を放ち、東京六大学野球の記録を塗り替えた。

1957年(昭和32年)長嶋茂雄は読売ジャイアンツに入団。ルーキーイヤーから全試合に出場し、打率.305、29本塁打、92打点で本塁打、打点の二冠と新人王を獲得。国民的な人気を集めるスタープレイヤーとなり、「ミスタージャイアンツ」とも呼ばれた。1959年(昭和34年)に読売ジャイアンツに入団した王貞治との3番4番コンビは「ON砲」は有名。川上哲治監督のもとで長島、王、らに加え堀内恒夫、高橋一三、城之内邦雄らの20勝投手や、森昌彦、柴田勲、高田繁、黒江透修ら野手の脇役も揃った読売ジャイアンツは快進撃を始め1965年(昭和40年)から1973年(昭和48年)まで9年連続日本一を達成。その偉業はV9と呼ばれた。1974年(昭和49年)読売ジャイアンツが10連覇を逃すと長嶋茂雄は現役を引退。現役時代には首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回を獲得した。

現役引退の翌年にあたる1975年(昭和50年)退任した川上哲治監督に代わって読売ジャイアンツの監督に就任。1年目は最下位に終わった。不振の原因としては長嶋茂雄、森昌彦、黒江透修が同時に引退し戦力が落ちたことに加え、コーチ陣との方針の食い違いがあったとされる。監督2年目は張本勲をトレードで獲得するなどテコ入れを図り見事セリーグを制覇。日本シリーズは3勝4敗で阪急ブレーブスに敗れた。翌年もセリーグでは独走して優勝したが日本シリーズでは1勝4敗で前年と同じく阪急ブレーブスに敗れた。その後はセリーグで2位、5位、3位に終わり、1980年(昭和55年)をもって監督を退任した。

1993年(平成5年)長嶋茂雄は藤田元司の後を受けて再び読売ジャイアンツの監督に就任。1994年、1996年、2000年と3回リーグ優勝し、そのうち1994年と2000年には日本シリーズを制して日本一を達成した。2001年シーズンをもって監督業から勇退。9月28日に監督退任と、終身名誉監督への就任が発表された。