松井秀喜
元プロ野球選手
松井秀喜の名言
松井秀喜の過去の名言をまとめた名言集です。
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コントロールできないものに気を病むのではなく、できることを精一杯やる。
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チャンスに強いバッターというのは、要するに、ここぞという場面でも平常心を保てる選手ではないでしょうか。だから、僕は全ての試合で同じように準備して、全て同じ心境で打席に入りたいと思っています。ここぞという場面で打つためです。
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調子が悪くなったときも、絶対に前の感覚を思い出そうとするのは嫌なんです。そう思った時点で、それは後戻りですから。
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僕は困難に直面した時「今、自分にできることは何か」と自問します。
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残念ながら過去に戻ることはできません。しかし、未来の自分はコントロールできます。それならば、前に向かうしかありません。
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自分にコントロールできないことは、いっさい考えない。考えても仕方ないことだから。自分にできることだけに集中するだけです。
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僕は、生きる力とは、成功を続ける力ではなく、失敗や困難を乗り越える力だと考えます。
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僕が心がけていることは、いつも同じように準備をし、平常心で打席に向かうことです。打ちたいという気持ちが強ければ強いほどホームランが打てるなら、いつも打ちたいと念じますよ。
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なんとかなるものであれば、解決しようと知恵も絞りますが、自分の力でどうにもならないものについては、あれこれ考えません。
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一度のミスも、スランプもない野球選手など、絶対にいません。プロ野球選手として成功してきた人々は、才能だけではなく、失敗を乗り越える力があるのだと思います。
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終わりはないと思うんです。一つ何かをクリアしても、その先にはまた一つ新しいテーマがある。
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困難に直面したとき「今、自分にできることは何か」と自問します。悔やみ、落ち込むしかないのでしょうか。多くの場合、そんなことはありません。きっと前に進める選択肢があるはずです。
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逃げないことじゃないですか。好きだと思えることからは。
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受け入れることは勇気が要ることです。正直言えば辛い。辛いのだけれど置かれた状況やありのままの姿を受け入れなければ前に進めないし、問題も解決しません。
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ヤンキースを選んだのは、あえて自らを厳しい状況に追い込み、自分の潜在能力を引き出したいと思ったからです。
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外国人選手のように肩が強くなければ、捕ったらすぐに投げればいい。脚力が劣れば、スタートの第一歩をどうするかを考えたらいい。自分は何で勝負出来るかを考えることによって、活路が見いだせるはずです。
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打撃というのは相手投手、場面によって変わってくる。常にニュートラルな位置にいて、投手に向かっていくようにしています。だから、たとえ良い打撃をしても、その感覚を次の打席も続けようとは思いません。良かったことを忘れることも大切なんです。
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どんな道でも、進んでいけば嫌なことはいっぱいあります。それでも、逃げないことだと思います。
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カメラやペンの向こうにファンがいるじゃないですか。僕は、球団からではなく、ファンからお金をもらっていると思っているんです。
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毎日、毎日、二人きりで練習に付き合ってくださり、ジャイアンツの4番に必要な心と技術を教えていただきました。また、その日々が、その後の10年間アメリカでプレーした私を大きく支えてくれました。そのご恩は生涯忘れることはありません。
解説: 長嶋茂雄との関係について
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これから厳しい戦いが続くけど、自分が選んだ道だから何の後悔もない。
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悔しさを露にすれば、自分の心が乱れます。自分の心が乱れれば、次にど真ん中の好球が来たとしても打てません。
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誇りを持つ人が多い組織ほど、ここぞという場面で強いような気がします。
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悔しさを露にして得することなど何もないのです。逆にグッとこらえていれば次に生きることもあります。
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ワーで遠くへ飛ぶのなら、プロレスラーやお相撲さんが遠くへ飛ばせるはずです。インパクトの際、ボールに最大限の力を加えられる技術があるからこそ遠くへ飛ばせるんです。
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今は何を言っても「裏切り者」と思われるかもしれませんが、いつかは、松井が行ってよかったなと思ってもらえるように頑張りたい。
解説: 読売ジャイアンツを退団してのメジャーリーグ挑戦について
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打てないボールは、打たなくていいという諦めを持つには勇気が要ります。
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僕は変化というのは自分からは求めていません。求めていかなくても変わるところは変わっていくでしょうし。こっちのやり方がダメならあっちの方という考えはないんです。
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どんな状況であれ、常に自分ができることを精いっぱいやることが大事だと思っています。
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これまでの人生のなかで、「ああ、つらいな」と思ったことは、まだ一度もありません。
松井秀喜の名言を見ている方へお薦めする名言
松井秀喜の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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なにもしないのは簡単だ、でも誰がなにもしないことを望むんだ?
ドナルド・トランプ 第45代アメリカ合衆国大統領、実業家
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道徳に加勢する者は一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。
夏目漱石 小説家
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勝っているとしても、上手くなっているとは限らないんだ。
タイガー・ウッズ プロゴルファー
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すべてが順調にすべてが想うままにそんなゴルフは存在しない。そうならなかったとき、「ゴルファー」としての本質が判る。
ジャック・ニクラウス プロゴルファー
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自分なりの武器を持つことが一番大切なんじゃないかと思います。僕の場合、サーブはあまり強くなくて、フォアが自分の武器だったし、ストロークにも自信がありました。自信を持てるショットを何か一つ持っていれば、強くなれると思います。
錦織圭 プロテニスプレーヤー
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人が集まることが始まりであり、人が一緒にいることで進歩があり、人が一緒に働くことで成功をもたらしてくれる。
ヘンリー・フォード フォード・モーター創業者
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「安定」があるというのは幻想だ。そんなものは存在しない。周囲の環境は常に変化している。高いレベルを維持するには変化するしかない。変化は脅威ではなく、機会である。
カルロス・ゴーン 元日産自動車CEO
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「弱い相手からは、必ず先に点をとれ」。南海で選手だった頃、鶴岡一人監督に徹底して叩きこまれた考え方が、それだった。弱いチームは心が弱い。失点すると「また負けだ……」とすぐ心が折れる。だから先制点で出鼻をくじけば、いとも簡単に自ら調子を崩す、というわけだ。
野村克也 プロ野球選手、監督
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物を作る人間には、ふっと神様が降りてきてくれる瞬間があるような気がします。でも、その前に技術は磨いておかないといけません。ひらめいたときに、それを具体化する能力を、技術として持っていないといけない。
倉本聰 脚本家
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人生には、とにかくやってみなきゃわからないってことが多すぎますよねえ。やるかやらないか、それは自分の判断ですけど。
松田優作 俳優
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理想や将来はいまは無いものです。しかし、ああしたい、こうなりたいという希望を言葉にして設定することで、私たちは理想や豊かな将来に向かって歩いていくことができる。
井上ひさし 劇作家、放送作家、小説家
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自由のない安全は牢獄と呼ばれる。
ベンジャミン・フランクリン アメリカの政治家、科学者
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百歩先の見えるものは、狂人扱いされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが、成功者である。現在が見えぬのは、落伍者である。
小林一三 阪急グループ創業者
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永遠に生きようなどと思ってはいけない。それでは成功できなくなる。
バーナード・ショー 劇作家
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他人の思惑などに振り回されず、自分のやりたいように生きる。外の世界にいちいち対応せず、自分の世界の流儀でやればいい。
水木しげる 漫画家
松井秀喜について
松井秀喜は読売ジャイアンツやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した元プロ野球選手。ポジションは外野手。愛称はゴジラ。188センチ、99キロの恵まれた体格を活かし、長距離打者として活躍。読売ジャイアンツ時代には、ホームラン王3回、打点王3回、首位打者1回を獲得した。2003年にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、2009年には、ヤンキースの世界一に貢献し日本人選手初のワールドシリーズMVPを獲得した。その後ロサンゼルス・エンゼルス、オークランド・アスレチックス、タンパベイ・レイズでプレーして2012年で現役を引退。2013年、長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を受賞した。
1974年6月12日、石川県能美市生まれ。誕生時の体重は3,960グラムだった。父は新興宗教「瑠璃教会」の司教・松井昌雄。松井秀喜は幼い頃から体が大きく、小学校1年生で野球チームに入団するが、チームメイトが小学3年生以上のチームで馴染めず一度野球を辞めてしまう。本格的に野球を始めたのは小学校5年生のときだった。また、小学校時代は柔道も習っており、石川県大会で3位という成績も残している。中学校からは柔道を辞めて野球に専念し、パワーを活かして打者としても大活躍を見せる。高校は高校野球の名門校、星稜高校に進学した。高校では内野手としてプレーし、打撃を買われて1年生から4番打者となり、夏の甲子園にも出場。高校野球関係者の中では知られる存在となっていった。高校2年の夏の甲子園では準決勝まで進み、3回戦の竜ヶ崎一高校戦ではホームランも放った。高校3年次の春の甲子園に出場し、準々決勝敗退。夏の甲子園では2回戦の明徳義塾戦で5打席連続敬遠され、チームも敗退。5打席連続敬遠という戦術に出た明徳義塾は激しい批判を受け、議論を呼んだ。松井秀喜の高校通算成績は、打率.450、本塁打60本だった。
1992年のドラフト会議で松井秀喜は、4球団から1位指名を受け、抽選の末読売ジャイアンツへの入団が決まった。プロでは外野手へと転向することになった。大型新人として期待を受けた松井秀喜はオープン戦から1軍で起用されるが、オープン戦の打率は.094という惨憺たる成績に終わり、開幕は2軍で迎えることになった。それでも2軍で12試合で.375、4本塁打と活躍し、5月1日には一軍に登録。初戦でホームランを放った。その後も1軍と2軍を行き来し1年目は57試合で打率.223、本塁打11本という成績に終わった。2年目にはレギュラーに定着し、打率.294、本塁打20本、66打点と高卒2年目の野手としては飛び抜けた成績を残す。その後、6年目の1998年に34本塁打、100打点で初の個人タイトルとなる本塁打王と打点王を獲得。2000年と2002年にも本塁打、打点の2冠、2001年には首位打者を獲得している。チームは1994年、2000年、2002年に日本一となっている。2002年オフにFA宣言し、アメリカメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースに移籍した。
ヤンキースも一年目からレギュラーを獲得した松井秀喜だったが、動く速球など、メジャーリーグへの対応に来る意味、一年目は打率.287、16本塁打に終わった。2年目からは適応を見せ、.298、31本塁打、3年目は.305、23本塁打の成績を残した。その後は左手首や太腿、膝などの怪我に悩まされながら2009年までヤンキースでプレー。2009年に松井秀喜はポストシーズンで大活躍し、9年ぶりのワールドチャンピオンに貢献、ワールドシリーズMVPも獲得した。ヤンキースを退団後は、ロサンゼルス・エンゼルス、オークランド・アスレチックス、タンパベイ・レイズで1年ずつプレーして2012年をもって現役を引退。引退翌年の2013年には、読売ジャイアンツ入団時の監督だった長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を受賞した。