桑田真澄

元プロ野球選手

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桑田真澄の名言

桑田真澄の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 僕はよく「努力家」と評されるのですが、自分自身では努力した記憶は一切ありません。やりたかったんです。肘を手術したときも、「お前はよくそんなに熱心にリハビリができるな。走り込みができるな」と言われました。でも、自分がリハビリをしたかったんです。走りたかったんです。努力しようと思っているときは、まだ情熱が足りないんだと思います。

  • 勉強で大切なことは100点をとることではなく、50点でもいい。次は51点を以上を目指すという姿勢が大事なのだ。

  • 目標を達成できたから偉いわけでもなく、達成できなかったからダメでもない。目標を立ててそこへ向かっていくというのは人生の喜び。

  • やるか、やらないかですよ、人生は。やればそれだけのものが返ってくるし、やらなければそのままですよ。

  • 格好悪くていい。「格好悪い」とは人の評価だからである。僕は自分が充実した人生を送るために生きているわけで、周囲の人から見て格好いいことをするために生きているわけではない。

  • 僕の時代は野球を習い始めた小学生の時から、グランドに行けば先輩や監督が怒鳴ったり、殴ったりするわけです。それが嫌で嫌で仕方がなかったんですね。それで野球が上手くなるならいいですよ。でも僕にはとてもそんなふうには思えなかった。

  • 結果は大事、でもプロセスはもっと大事。

  • 一心不乱に根性だけで練習に没頭したことは一度もなかった。やるべきことを精査し、効率性を重視しながら、練習を積み重ねていた。

  • イチローも4割・5割の打率は記録できず、6割以上失敗する。人生も同じだ。失敗しても構わない。大事なのは、失敗してもそこから起き上がることだ。

  • 他人は失ったものに目を向けますが、僕は得たものに目を向けます。

  • 遠回りしてやることも、素晴らしいこと。

  • 努力は、量ではなく質である。短時間で、効率的、合理的に積み重ねてこそ成果がある。そして、「表の努力」と「裏の努力」を両立できてこそ、努力は報われる。

  • リハビリのために通ったジャイアンツ球場で、僕はできることを全力で続けた。毎日、外野のフェンス沿いを走っていたら、その跡は芝生が剥げてしまった。それが「桑田ロード」と名付けられたことを知ったのはずいぶんあとのことだ。

  • 練習したからといって、すぐに結果が出るものではない。毎日コツコツ努力していると、人間はある日突然、成長する。

  • プロ野球選手となったあとも、無茶な努力はしなかった。怪我をしたら意味がないからだ。無茶な練習の代わりに、23年間、毎日毎日「50回のシャドウピッチング」を必ず続けた。時間にしてみれば1日10分とか15分。

  • 野球も人生も「うまくいかない」のが当たり前。「超マイナス思考」で物事に向き合えば、少しのことでプラスに変換できる。積極的に行きて行くことができるのだ。

  • いい事はもちろん、悪い事も視点を変えて良い試練だとポジティブにとらえることにより、怒ったり落ち込んだりすることなく、何事も自分の成長の糧にすることができる。

  • 長い人生の中、常に成長しつづけることができるわけではないが、基本的なことを諦めずにやり続けていると、ある日、努力が報われて急にできるようになりたかったことができるようになる時期が来る。その収穫期のような時期のため、日々マイペースでいいので諦めずに努力を続けていく必要がある。

  • 時間は誰にでも平等に同じリズムで刻まれている。秒針がひとつ進む瞬間に対してベストを尽くす。それが何よりも大事なこと。

  • 周りからは、「もうすぐ40歳という年齢でメジャーリーガーになんてなれるわけないだろう」「恥をかくだけだからやめておけ」なんてよく言われました。でもぼくの気持ちは、「恥をかいても、笑われてもいいじゃないか。自分の人生なんだから、見たいもの触れたいものに挑戦すべき」というものでした。だからメジャーリーグ挑戦という決断ができたんです。

  • 人は必ず死ぬじゃないですか。そして、いつ死ぬかわからない。だったら、命のある限り自分の好きなことをやって、ひとつでも多く挑戦を続けたいと思ったんです。だから自分にとって何がベストなのか、自分らしさとは何なのかということを常に念頭に置いて野球に打ち込んでいました。

  • 僕自身は、ズバ抜けた体格とか技術を持っているとは思ってなくて、どちらかというと体が小さいことにコンプレックスを持っていたぐらいだったんです。自分自身を客観的に分析した結果、桑田真澄という選手はたいしたこと無い選手だと。

  • 今まで経験したことのないことを、毎日経験できる。これは最大の楽しみです。

  • 野球選手であろうと、サラリーマンであろうと、大工さんであろうと、一人ひとりに役割がある。その役割を全うする、仕事を通して自分を磨いていくのがプロフェッショナル。

  • 人間は自分一人では何もできない。だからこそ、周囲の人たちに感謝しつづけたい。

  • 日本の指導者にどうしても伝えたいことがある。指導者は「選手に教える」のではなく「選手とともに考え、ともに歩む」存在だ。「金の卵」は大事に扱わないと、殻が簡単に割れてしまう。今こそ、指導者のレベルを底上げしなければ、日本野球の更なる発展はない。

  • 自分は怪我や病気なんてしない、僕はそう思っていた。でも、スポーツをしていれば、そんなことは決してない。怪我とはうまく付き合っていくべきだし、怪我から多くのことを学び取ることができる。

  • どんな選手もいいときばかりではない。打たれても気持ちを切り替え、悪い時を短くし、いい時を長くするのが、プロの世界で生きていくには大事。

  • 僕が野球界で初めてウェイトトレーニングを取り入れた時、周りはなんて言いました?なんて馬鹿なことをしているんだ。でも、今はどうです。正しいことなんて誰にもわからない。これまでの常識とは違う力の出し方だってある。

  • 人はいろんなことを言うかもしれないけど、僕の人生なんだからカッコ悪くてもいい。僕は野球しかできないし、とにかく野球が好きなんで、最後まで追い続けて、燃え尽きたらボールをそっと置きたいんだ。それを人にカッコ悪いと言われても、自分の人生、自分が納得できればそれでいい。

桑田真澄について

桑田真澄(クワタ・マスミ)は大阪府出身で読売ジャイアンツ、ピッツバーグ・パイレーツでプレーした元プロ野球選手。高校時代に夏の甲子園大会で2度優勝し、読売ジャイアンツにドラフト1位で入団。先発投手として173勝をあげる活躍をみせ、二度最優秀防御率のタイトルを獲得した。1995年に肘の怪我により靭帯移植を受け、復帰に約2年を要した。リハビリ中のストイックな練習への取り組み方は語り草となっている。引退後は、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士号を取得。

1968年(昭和43年)4月1日、大阪府八尾市に生まれる。小学校3年生から本格的に野球を始め、中学校では準硬式の野球部に所属し、ピッチャーとして大活躍を見せた。1983年(昭和58年)、高校野球の強豪PL学園高校に入学。桑田真澄は1年生ながら夏の甲子園大会の予選で活躍、夏の甲子園大会本戦ではエースとして出場し5試合に先発。2完封を果たすなどの大活躍を見せた。桑田真澄は同じ1年生で4番を務めた清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれ全国区の知名度を得た。PL学園は桑田、清原の在学中に5度甲子園に出場、2度の優勝、2度の準優勝を果たした。1985年のプロ野球ドラフト会議で清原が入団を希望していた読売ジャイアンツに1位指名を受け入団。このドラフトで桑田真澄は大学進学を希望していると伝えられていたため、ジャイアンツ以外の球団は指名を回避しており、ジャイアンツとの密約説などが飛び交い物議を醸した。

ジャイアンツ入団後は1年目から12試合に先発し、2年目には15勝をあげ、防御率2.17で最優秀防御率のタイトルを獲得した。それ以降、ジャイアンツのエースとして活躍した桑田真澄だったが1995年5月の阪神戦で小フライの捕球を試みてダイブしたところ右肘を負傷。側副靭帯断裂の重傷を負い、靭帯の移植手術を受けて復帰に2年を要した。復帰後は球速に衰えがみられたものの、投球術でカバーし1997年10勝、1998年に16勝をあげた。2002年には12勝、防御率2.22で再び最優秀防御率のタイトルを獲得した。2006年に読売ジャイアンツを対談し、2007年にはアメリカ・メジャーリーグのピッツバーグ・パイレーツに入団。中継ぎとして19試合に登板した。

翌年2008年もパイレーツとマイナー契約を結ぶが、チームの構想から外れたため桑田真澄は2008年のシーズン開始前に引退。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程に入学し、スポーツ科学の修士号を獲得。野球評論家、タレント、コーチとして活動している。

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