ヨハン・クライフ

サッカー選手、サッカー監督

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ヨハン・クライフの名言

ヨハン・クライフの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 良いサッカーをして結果も残さなくてはならない。ひどいサッカーをして結果だけを出したのでは退屈だ。良いサッカーをして結果が出ないのでは意味がない。

  • 「あなたは年寄りだから、ダメだ」と言われると、私はこう答える。「それを決めるのは、あなたじゃなくて、私だ」。

  • 全てのポジションで最高の選手を選んだとしても、それは最強のチームにはならない。最高の選手を11人集めたチームになるだけだ。

  • 真のリーダーでないのに、そうなろうとする選手は、味方がミスした後に叱責する。真のリーダーは選手がミスすることは想定済みだ。

  • 守り切って勝つより、攻め切って負ける方が良い。

  • 良い監督は、あるプレーヤーの短所を、別のプレーヤーの長所でカモフラージュする。

  • なぜお金のあるクラブを倒せないんだ?私はゴールを決める前に、大金の入ったカバンを見たことはないよ。

  • 11人より10人のほうが上手く回る。サボる奴がいなくなるから。

  • 統計的に1人の選手が1試合でボールを持つのは3分だと解明されている。だから重要なことは残りの87分、ボールを持っていない時に何をするかだ。それが良い選手か、悪い選手かを決める。

  • サッカーはとても単純なんだ。でも単純にプレーするのが難しい。

  • シンプルなワンタッチのプレーこそ最高の技術だ。

  • 近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。中略、攻撃陣の選手が走り回り、体力を消耗することは重要な局面での瞬間的なひらめきや、判断力がにぶり、チームに悪影響をおよぼすことに繋がる。

  • アヤックスとはサグラダ・ファミリアのようなもの。どちらも一日でできあがったわけではない。

  • シュートを打つんだ。そうでなければ得点は生まれない。

  • 才能ある若手にこそ挫折を経験させなければならない。なぜなら、挫折はその選手を成長させる最大の良薬だからだ。

  • 月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイディアと心中した方がマシだ。

  • 能力のないプレーヤーほど、他人のミスを責めたがる。

  • 目先の事だけではなく、もっと長期的に考えなければならない。自分の責任は勝つ事だが、クラブは生き続けていかなければならないんだ。

  • 他人の見通しに従って失敗するよりも、自分の見通しで失敗すべきだ。

  • 美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え。

  • フットボールの試合は、まず観客を楽しませなければならない。

  • 現代のサッカーは楽しさが欠けている。子供の頃から走ること、戦うこと、結果を求めることばかりを追求し、基本的な技術すら身につけないことは馬鹿げている。

  • 私は間違ったことがない、間違うことは私にとって難しいんだ。

  • 私はフットボールを始めて以来、多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。

  • ボールを動かせ、ボールは疲れない。

  • ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ!

  • 自分が走る必要は無い、ボールを走らせるんだ。

  • フットボールは勝つだけのものではない。ファンにために、若者たちの教育のためにも、さらに振る舞いや話し方、フットボールの全てが子供たちの教育になる。

  • 私が思い出すのは、自分が一番優れていたことだけだ。

  • ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ。

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ヨハン・クライフについて

ヨハン・クライフは1947年オランダ生まれのサッカー選手。ポジションはフォワード。オランダの強豪アヤックスのユースチームで育ち、弱冠17歳でトップチームデビュー。翌年には16ゴールをあげチームの国内リーグ優勝に貢献する。アヤックスでは10シーズンプレーし318試合に出場、247ものゴールをあげ国内リーグ6回優勝、チャンピオンズリーグ3連覇など輝かしい成績をあげた。

1973年、26歳のとき、スペインの強豪バルセロナに移籍。5シーズンプレーして国内リーグを一度優勝している。オランダ代表としても48試合プレーして33ゴールをあげた。その華麗にディフェンスをかわす姿から「フライング・ダッチマン」の愛称で親しまれ、キックと見せかけて方向を変え、相手を置き去りにする独特のターンは「クライフターン」と呼ばれた。

引退後、ヨハン・クライフは指導者の道に進み、1985年アヤックスの監督に就任、2年半の間に国内カップを2度と、UEFAカップウィナーズカップを1度制覇。アヤックス監督を退任して半年後の1988年6月、バルセロナの監督に就任する。クライフはチームにショートパスを主体とした攻撃的なサッカーを植え付ける。ストイチコフやミハエル・ラウドルップ、ロナルド・クーマン、下部組織から昇格させたジョゼッペ・グアルディオラらのタレントにも恵まれ魅力的なサッカーを展開し、「ドリームチーム」と呼ばれた。バルセロナでは在任8年間で国内リーグ4度優勝、UEFAチャンピオンズカップとUEFAカップウィナーズカップ を1度制覇した。